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2012年         2月号
Essay……●
BOX版(ネットストーレッジ)……●

マガジン2012年2月号




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 29日号
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★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【金谷から韮山へ、講演旅行】 はやし浩司 2012−01−14

●金谷へ

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 7時26分発の、興津行きに乗る。
気温は3〜4度。
寒い。

 午前中は、金谷(かなや)で講演。
教職員組合榛原支部。
それが終わったら、午後は、韮山(にらやま)へ。
同じく教職員組合田方支部。
そこで講演。
そのあと沼津の宿で一泊。
「はまゆう会館」。

●歯車

 日本人から(たくましさ)が消えて、久しい。
一億、総草食系。
豆腐系。
みな、それぞれが機械の歯車のようになり、ゆっくり、ゆっくり、回っている。

 はみ出たことができない。
はみ出ることもない。
はみ出た人を、異端視する。
叩く。
ただひたすら、ゆっくり、ゆっくり、回っている。
電車の中を見渡したとき、ふと、そう思った。

●電車の中

 淡い橙色の朝日が、斜め左前から窓を通して、顔に当たる。
当たるたびに、窓ガラス全体が白くなり、外の景色がさえぎられる。

 左の少し離れたところに、中学生らしい一群が、陣取っている。
どこかへ対抗試合に行くところらしい。
みな、白いスポーツ・バッグをもっている。
「NIKE」と書いてある。
華やいだ笑い声が、うらやましい。

 目の前の座席には、4人の男たちが座っている。
うち3人は目を閉じ、下を向いている。
1人は、大きないびきをかいて、眠っている。
30歳くらいの男は、携帯電話に読みふけっている。
どこでも見られる、早朝の出勤風景。

●眠い

 昨夜、床に入る前に、睡眠導入剤をのんだ。
朝までぐっすりと眠ったはず。
が、眠ったときほど、眠気があとに尾を引く。
今が、そのとき。
軽い眠気が、脳内に充満する。

 「こんな頭で、講演ができるだろうか……?」と。
少し心配になってきた。
いや、その心配もあったから、起きるとすぐ、10分間。
出かける前に、10分間、計20分間、ウォーキングマシンの上で、軽い汗をかいた。

●電車の中
 
 今、客の数を数えてみた。
全員で、30人。
うち学生らしき人たちは、11人。
新聞を読んでいる人は、隣のワイフと、もう1人、最後尾に座っている男性1人。
2人だけ。
携帯電話(端末)を手にしている人は、6人。
 
 ……電車は、たった今、掛川駅に着いた。
ゾロゾロと客が降りた。
つづいてほぼ同じ数の客が、乗り込んできた。
目の前に座った男は、スキー靴を履いている。
歩くたびに、床をガツン、ガツンと叩くような音がする。
太った、大柄な男。
35歳くらい。
態度も大きい。
片足を通路のほうへ、大きく投げ出して座った。

 ああ、眠い……。

 金谷まで、あと10分?
しばらく休憩。

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●Oさん

 金谷での講演で、県の教育委員会のOさんに会った。
Oさんは、あいさつだけで、金谷の会場を去った。

そのOさんと、再び静岡駅で出会った。
私たちはそのまま、いっしょに、韮山へ向かった。

●講演

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 韮山での講演は、無事、終わった。
韮山から、長岡に一度出て、そこからバスで、宿泊先の「はまゆう会館」に向かう予定だった。

 が、主催者の方が、「送ります」と。
私たち夫婦は、その言葉に甘えることにした。

●KKR沼津、はまゆう

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/39/imgdae199f3zik4zj.
jpeg" width="640" height="480" alt="DSC00243.JPG">

 5時ごろ、「はまゆう」に着いた。
正式の名前は、「KKR沼津、はまゆう」という。
知っている人は、知っているのだろう。
しかし「KKR」というのは、何?※。

ホテルのネーミングとしては、まことにまずい。
こういう意味のわからない略字を見ると、ふつうの人なら、それだけで拒絶反応を起こす。
「コレハ(=K)、コレハ(=K)、良(=R)」の意味か。
どこかの「組合会館」とは聞いていた。

 が、来てみてびっくり。
造りも立派な、一流ホテル。
豪華。
私は名前から、小さな民宿風の旅館を想像していた。

(注※……KKRというのは、国家公務員(=K)、共済(=K)、連合会(=R)の意味だそうだ。
道理で、超豪華!
当初は国家公務員の保養施設として建設されたが、客が少ないので、一般客にも開放されて
いるとのこと。)

●午後11時

 で、今、時刻は11時!

 いつも暇さえあれば、何かを書いている私だが、今日は、何も書けなかった。

 先にも書いたが、韮山で講演をしたあと、車で送られて、ここ沼津まで。
が、ここで私の元気が底をついた。
温泉から出たあと、30分ほど仮眠。
そのあと食事。
再び、仮眠。

 先ほど起きて、午後11時。

さすが1日、2回の公演は、疲れる。
時間にすれば、計4時間近く立ったまま話したことになる。
若いころは、平気だったが……。

●潮騒

 窓の外からは、潮騒の音が、直接聞こえてくる。
「直接」というのは、「間近に」という意味。
眼下に細い道があり、その向こうは、海岸。

 その音を聞いていたとき、あのビーチハウスを思い出した。
オーストラリアの友人のビーチハウスである。
私はそのビーチハウスに、若いころ、3か月間、世話になった。
毎朝、その潮騒を聞きながら、過ごした。

 古き、よき時代。
私は、そのころ、もっとも幸福だった。
1日を1年のように、長く感じた。

●「福島産の米」

 「はまゆう」のフロントに、張り紙がしてあった。
こう書いてあった。
「このホテルでは、福島産の米を使用しています」と。

 福島産の米?

 温泉で知りあった男性と、それが話題になった。
その男性は、川崎(神奈川県)から来ていた。
「私はいいですが、子どもには食べさせられません」と。

 あとで食堂で見ると、その男性は妻と子ども(10歳くらい)を連れてきていた。

 が、どうしてそんな張り紙をしているのだろう。
ふつうなら、そんな張り紙をしない。
それともホテル側の、精一杯の誠意なのだろうか。
だからフロントで、私はこう聞いた。

「魚類はどうですか?」と。
するとフロントの男性は、こう言った。
「ほかのものは、このあたり(=沼津)のものです」と。

●三島ざくら(三島・兎月園)

 韮山での講演のみやげに、「三島ざくら」と「パイ」をもらった。
製造元は、「三島・兎月園(とげつえん)」とある。
さすが……というか、地元の人は、味をよく知っている。
先ほど、箱をあけ、それぞれ何個かずつ、食べてみた。

 おいしい!

 と、同時に、先日ある中国展の会場で買った、北京のみやげを思い出した。
クルミを飴でくるんだ菓子だった。
が、断言する。
あれば「クルミ」ではない。
ただの「落花生」。

 それに飴が粗悪品。
食べると、しつこく、歯にそれがくっついた。
直後、歯をみがいたが、それでも取れなかった。
しかも、だ。
ここからだ実に中国らしい。
上げ底もよいところ。

●上げ底

1・5センチ四方の菓子が、10個ずつ、まず化粧箱に入っていた。
その箱を、3箱、大きな化粧箱に入れてあった。
上げ底は当然としても、周辺を内へ大きく折り曲げた化粧箱。
実際の菓子の6〜8倍に、(あるいは10倍以上に)、中身を大きく見せていた。

 が、箱だけは、立派。
赤地に金文字。
金文字は、浮き出ている。
菓子箱の底にも、金紙が張ってあった。

 それを思い出しながら、私はワイフにこう言った。
「中国も、こういう菓子(=兎月園の菓子)を見習うべき」と。

 10年前と比べると、それでもよくなった(?)。
そうそう書き忘れたが、中国のその菓子は、どこか油臭かった。
歯で割ると、プンと油の臭いがした。

 そのあとその菓子をどうしたか?
みなさんの想像に任せる。
 
●沼津の御用邸

 このホテルの近くに、御用邸があるという。
歩いて15分ほどの郷里という。
観光施設として、見学+観光できるという。
案内書を読みながら、ワイフがそう言った。

 沼津行の送迎バスは、10時に出るという。
御用邸は午前9時、会館。
「行ってみるか?」と声をかけると、ワイフが「うん」と。

 どんなところか。
御用邸だぞ!
楽しみ。

●沼津魚市場食堂

 ホテルの案内書に、沼津魚市場食堂が紹介されていた。
その中に、先日行った、「丸天」が載っていた。

 私とワイフは、そこでびっくりするほど量が多く、おいしい魚料理を食べた。
「どれ……?」と言って、その案内書を見た。
その瞬間、あのときの料理が、脳の中にはっきりとした映像となって現れた。

丸天の魚料理は、今まで食べた魚料理の中でも、最高!
「また行こうね」「うん、また行こう」と。
 
 沼津と言えば、魚。
魚料理。
魚料理といえば、丸天。

●「はまゆう」

 部屋は畳で、10畳。
内風呂も大きく、清潔。
国家公務員専用の宿泊施設ということだが、私たちのような一般客も泊まることができる。

 部屋、料理ともに、ほぼ満足。
今日は土曜日ということで、もう少し混雑しているかなと思ったが、客は全部で、20人ほど。
「(3・11大震災以来)、海のそばの旅館やホテルは、敬遠されている」とのこと。
先月、沼津へ来たとき、タクシーの運転手が、そう言っていた。

 が、このホテルは、立派。
部屋数は少ないが、部屋も広い。
見るからに、それがよくわかる。
また現在、私たちが泊まっている部屋は、3階。
先ほどもワイフがこう言った。
「ここまでは、津波は来ないわ」と。

 3・11大震災以来、どこへ行っても、すぐそういう話になる。
大きなトラウマができてしまった。

●睡眠時間

 しかしさすがに、今日は疲れた。
起きたのが午前4時。
一仕事終え、家を出たのが、6時45分。
電車に乗ったのが、午前7時29分。
以後、2つの講演をこなした。

 朝食は、フルーツを少し。
昼食は抜いた。

 今月は、あと2つ講演がある。
で、来月、2月。

 東京で講演をしたあと、翌日、金沢での同期会がある。
その前日は、東京での講演。
いろいろ考えてみたが、体力的に無理。
今、そういう結論になりつつある。

 問題は距離ではなく、睡眠。
どう睡眠時間を、うまく調整するか。
ホテルや旅館では、どうもうまく眠れない。
友人は、「羽田から小松まで飛行機で来ればいい」と言う。
しかし私は大の飛行機嫌い。

 「同期会は、やっぱり断るよ」と私。
「そのほうがいいわね」とワイフ。

 無理ができない体になってしまった。

 それにしても、疲れた。
こうしてパソコンを叩いていても、時折、意識がかすんでいく。

●雑談

 ワイフとの雑談がつづく。
ワイフは部屋にあった木製のパズルで遊びながら、ペチャペチャ……と。

 ワイフは、人前では静かな女性。
見た目にも、そうだ。
しかし私と2人だけになると、よくしゃべる。
ときには、床に入ってからも、1時間ほど、しゃべりつづけることがある。
そんなことから、結婚して40年になるが、いまだによくわからない。

 私のワイフは、おしゃべりなのか、そうでないのか、と。

 ……たった今、木製パズルで、目的とする形ができたらしい。
「できた! Tの字!」と。

●スポーツカー

 こんなことがあった。

 1年ほど前、ある知人宅に、新年のあいさつに向かった。
そのとき庭先を見ると、中古だったが、M社のスポーツカーが置いてあった。
私のような門外漢でも、それがどういうスポーツカーであるか、すぐわかった。
「すごい車ですね」と声をかけると、その知人は、その車について、あれこれと説明してくれた。
得意げだった。

 で、それから1年。
つい先日のこと。
別の知人を訪ねると、同じようなスポーツカーが、駐車場に並べてあるのを知った。
その知人は、市内で中古車販売をしている。

 「どこかで見たような車だな……」と思いつつ、「この車と同じのを、見たことがあります」と言う
と、その知人は、こう言った。
「この車は、今、浜松には、2台しかないよ。1台は、甥っ子にくれてやったけどね」と。

 そのときはじめて、先の知人と、その知人が、親戚関係にあることを知った。
しかし先の知人(甥っ子)は、そんなことは一言も言わなかった。
「叔父にもらった」とは、一言も言わなかった。

●葬儀

 こういう例は、多い。
たとえば友人だったA氏は、長年にわたり、義弟の生活費を負担してきた。
義弟の息子や娘たちの学費まで、負担してきた。
で、そのA氏が、数年前、他界した。
そのときのこと。
私はそういう話をA氏から聞いていたので、葬儀には、当然、そういう人たちが参列しているも
のとばかり思っていた。

 義弟とその息子や娘たち。

 が、だれも来ていなかった。
それを知り、ワイフは、こう言った。
「Aさんの世話になったのだから、葬儀には来るべき」と。

●ODA(政府開発援助)

 ODAというのが、ある。
政府開発援助。
ODAのオフィシャル・サイトには、つぎのようにある。
『Official Development Assistance(政府開発援助)の頭文字を取ったものです。
政府または政府の実施機関によって開発途上国または国際機関に供与されるもので、開発
途上国の経済・社会の発展や福祉の向上に役立つために行う資金・技術提供による協力のこ
とです』とある。

 協力先は、150か国以上に及ぶという。
日本は、ここ10年、毎年、10000x100万ドル=100億ドル=約8000億円の援助を繰り返
している(同、サイト)。
実際には、これはODAを通してのみの額。
ほかにもそれぞれの機関が、有償、無償の援助を繰り返している。
前回、野田首相は東南アジアの何かの会議に出たとき、そのときだけで、2兆円の資金をばら
まいてきている(2011年11月)。

 が、当の援助された国々は、それだけ日本に感謝しているかと言えば、それはない。
それもそのはず。
それぞれの国の為政者たちは、そうした援助は、「自分の手柄」として、そこで口を閉じてしま
う。
ダムや道路、港を建設したとしても、「これは日本の援助によるものです」とは、絶対に言わな
い。

●現金の力の限界

 つまりここに、現金(マネー)のもつ力の限界がある。

 中古であるものの、スポーツカーをもらいながら、「もらった」とは言わない知人。
子どもの学資を出してもらいながら、「出してもらった」とは言わない友人の義弟。
そして日本の援助を受けながら、「日本のおかげ」とは、言わない、その国の為政者たち。
みな、自分のところで、恩の流れを止め、自分の手柄としてしまう。

 ウソではないが、あえて言うなら、「不作為によるウソ」。
ウソつきがつくウソと、どこもちがわない。

●思考力

 ……ということで、今は、思考力ゼロ。
読んで、ご覧のとおり。
意味のない文章がつづく。
「思考力ゼロのときは、こういう文章」という、つまりはその見本のような文章。
頭の中に飛来する情報を、そのまま文章にしているだけ。

 ところで先ほどまで、左上半身が、こわばっていた。
肩こりのような痛みを感じていた。
「狭心症?」と思ったが、原因は、マイクだった。
あのマイクを、肌にこすりつけたまま、計4時間もかかえていた。
それでそうなった。

 そう言えば、おとといの夜、こんなことがあった。

●狭心痛

 2年前の正月に、はげしい胸の痛みを覚えて、一時、呼吸ができなくなったことがある。
「狭心痛か」と、そのときは、そう思った。
医院へ行っても、「そのときでないと、狭心痛かどうか、わかりません」と。
つまり痛みがあるとき、医院へ来い、と。
が、痛みはそのときだけで、以来、この2年間、同じような痛みを感ずることはなかった。

 で、おとといの夜のこと。
夜、9時半ごろ仕事を終え、いつものように自転車にまたがった。
気温は、0度近くまでさがっていたと思う。
風は、肌が切れそうなほど、冷たかった。
そのとき、私はこう思った。

「今夜、確かめてみよう」と。

 つまり全速力で走ってみて、自分の心臓を確かめてみよう、と。

 で、いつもより足に力を入れ、まず鴨江町(地名)のなだら坂を上った。
全速力。
で、そこからは今度は、なだらかな下り坂。
ふだんなら、そのままノンブレーキで、一気に坂下まで下るが、昨夜はその下り坂でも、力を入
れて、自転車をこいだ。

 あとは、いつもの道。
そこでも全速力。
容赦しなかった。
で、そのときこう思った。

「心筋梗塞が起こるかもしれない。起こるなら、起これ!」と。

 で、いつもなら40分ほどかかる距離だったが、25分ほどで家に着いた。
とたん、全身から汗が噴き出た。
と、同時に自分の脈をとった。
不整脈があれば、それでわかるはず。

 が、脈は正常だった。
速いが、正常だった。
はげしい運動をしたあと、よく、ドクドクと、瞬間的な不整脈を経験することがある。
が、それもなかった。

 居間でお茶を飲んでいるとき、ワイフにこう言った。
「心臓のほう、だいじょうぶみたい。今夜、それを自分で確かめてみた」と。

 死にたくはないが、最近は、よくこう思う。
「それが寿命なら、いつ死んでも構わない」と。

 自転車通勤にしても、そうだ。
自転車通勤をするようになって、もう40年になる。
それなりに自分の体を鍛えてきた。
それでも、心筋梗塞を起こすようなら、こんな体に、未練はない。
「とっとと、死ねばいい」と。

●視覚

 昨日、つぎのような原稿をBLOGに載せた。

まず、それを読んでみてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【視覚とは何か】(はやし浩司、1999年ごろ記)改

●ぼんやりと見る

 ぼんやりとまわりの様子を見る。

 そのとき、無数のものが、ばくぜんと、目の中に飛びこんでくる。
 目の網膜でとらえられた映像は、一度視床下部(ししょうかぶ)を経由して、脳のうしろにあ
る、大脳の後頭葉(こうとうよう)の視覚野(しかくや)に送られる。

 (網膜)→(視床下部、外側膝状体)→(大脳後頭葉、視覚野)

 しかしこの段階では、すべての情報がばくぜんと、脳の中のモニターに映されることになる。
カーテンも、机も、カメラも、印刷用紙も……。

 そこで私は、その映像の中から、必要な情報だけを選びださなければならない。

 たとえば私は、ここで、パソコンのモニターだけを見たいとする。しかもその中でも、文字だけ
を見たいとする。

 そこで視覚野に映った映像は、いろいろに加工される。これを脳科学の世界では、二次加
工、三次加工と呼ぶらしい。

 (視覚野の映像)→(二次加工)→(三次加工)。

 そのあと、こうして加工された映像は、主に二つのルートを通って、大脳の各部に送られる。

 (加工された映像)→頭頂葉連合野(1)
          →側頭連合野(2)

(1)の頭頂葉連合野へ送られた映像は、空間的な処理がなされるという。
たとえば脳の中でも、この部分にダメージを受けると、自分の位置関係がわからなくなるとい
う。

(2)の側頭連合野に送られた映像は、ものを認知するための処理がなされるという。
この部分が、ダメージを受けると、形がわからなくなるという。人の顔も区別できなくなることも
あるという。

こうして目から入った情報は、瞬時のうちに脳の中をかけめぐり、処理され、判断される。

 私はこうしてぼんやりと、カーテンごしに、外を見ている。何でもない行為だが、その裏で、無
数の情報処理がなされていることになる。

 こうした処理を直接頭の中で見ることはできないが、しかし想像することはできる。

 「あっ、今、後頭部に信号が送られたぞ」「二次加工されているぞ」「側頭連合野で判断されて
いるぞ」と。

 もちろんこれは私の勝手な想像によるものだが、それが結構、楽しい。

【追記】

 私たちが「そこ」に見ているものは、実際に、そこにあるものを見ているのではない。
たとえて言うなら、大脳後頭葉の視覚野というのは、モニター画面のようなもの。
つまり私たちは脳の中に映し出された、総天然色(?)の映像を見ているだけということ。

 もっとわかりやすく言えば、テレビを見ているようなもの。
まさに光と影がおりなす、幻想の世界を見ているにすぎないということになる。

 そう考えていくと、少し、不思議な気分になる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この原稿について、K県に住む、KD氏という方より、こんなメールが届いた。
たいへん興味深い事実が書かれているので、そのまま紹介する。
この中で、「3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした」という部分に注目してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【KDさんより、はやし浩司へ】

A硝子で液晶表示装置の視認性の研究開発をしたことがあります。
視覚に関する技術書を読んだり、医者と話したりして視覚の不思議さと
凄さに圧倒されました。
3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした。

聴覚についても研究・開発をしました。
生まれたときから目の不自由な方は室内に入った時にその音響特性
から部屋の大きさ、天井の高さも分かるのです。

T伸行さんのお父さんは産婦人科で高校後輩にあたります。
伸行さんは生まれながら目が不自由でしたので、聴覚で外界の状況を
判断・理解することになりました。
母親いつ子さんの献身的な支援により健常者は聞き逃している音までピアノで表現できるとい
う、まさに天才としての能力を育まれました。

ついにはクライバーンのコンテストで優勝するまでに才能を開花させたのです。
私はAVルームの開発の際、リビング空間の広さでホールのような音響を得る研究をしたこと
があります。
イギリスのスタジオで使われている適度な吸音性と拡散反射性をもつパネルを装置した部屋
に目の不自由な人に来てもらうと、凄く不安になるのだそうです。
部屋の大きさ、形状が分からないのでとても不安になるようなのです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●母親の顔

『3歳以降に手術によって視力を得ても、お母さんの表情も理解することが
できないということもショックでした』(KD氏)と。

 この話は、野性児のそれと共通している。

 0〜2歳前後の間、人間の手を離れ育てられると、以後、人間らしい感情や心を取り戻すこと
は、もうないという。
同じように、「3歳以後、手術によって視力を回復しても、母親の表情を理解することができな
い」と。

 ズシンと胸に響く事実である。
まさに『子育ては、本能ではなく、学習である』を、証明するような事実と言ってよい。

●就寝

 ワイフが寝支度を始めた。
そろそろ就寝タイプ。
エアコンがききすぎて、部屋の中は暑いほど。
「弱」にしてあるが、それでも暑い。

 先ほど窓を少し開けた。
……つまりこの温度調整が、むずかしい。

 では、今日の日記は、ここまで。
時刻は、午前1時。

●はやし浩司 2012−01−15

 ぐっすり眠り、午前6時半。
つづいて朝の入浴。
朝食。

 ところで私はこの1年、こうした日記を書くとき、「はやし浩司 2012−01−15」と書くように
している。
あとで、自分の書いた文章を、日付で検索しやすくするためである。
こうすれば、「はやし浩司 201x−xx−xx」で検索すれば、その日に書いた自分の文章を探し
出すことができる。

 ひとつのアイディアである。

●逆ギレ

 今朝のニュースで、一番驚いたのが、これ。

 赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまったという事件。

 この種の事件は、ときどきあるが、今回の事件は、つぎの1点で特異性がある。
殴った男性は、そのとき自分の「10代の息子」(報道)と、いっしょだったこと。
MSN・Newsの見出しは、つぎのようになっている。

『赤信号注意され逆上…男性殴り死なせた男の「理不尽」 交錯する怒りと悲しみ』(MSN・NE
WS)と。

 以下、MSN・Newsより

+++++++++++++以下、MSN・NEWS+++++++++++++++

東京都品川区の路上で昨年11月、赤信号で横断したことを注意された男が逆上し、注意した
男性を殴って死亡させる事件があった。
傷害致死容疑で逮捕、起訴された男は警視庁の調べに「腹がたってやった」と供述。
その理不尽な行動に、関係者の間で怒りと悲しみが交錯している。(大島悠亮)

息子の前で逆上し…

 昨年11月12日午後7時35分ごろ、大手百貨店や飲食店などが立ち並ぶ東京都品川区の
JR大井町駅中央口側の横断歩道。
区内に住む無職、小牧信一さん=当時(77)=は、対面から信号無視をして渡ってきた2人組
の男らを見かけた。

 「赤信号ですよ」

 小牧さんがこう注意すると、男の1人が「うるせえんだよ」と逆上。
顔を殴られた小牧さんは路上に転倒して頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
小牧さんはすぐに病院に搬送されたが、1カ月以上たった12月20日、帰らぬ人となった。

 捜査関係者によると、小牧さんを殴ったのは傷害致死容疑で逮捕され、今月13日に起訴さ
れた品川区東大井の会社役員、山根基久夫被告(48)。

そして、傍らにいたのは山根被告の10代の息子だった。
2人は事件後、駅構内を抜け、自宅のある東口方面から逃走。
山根被告は事件がニュースなどで報道されているのを見て、小牧さんが死亡したことも把握し
ていたという。

 当初、捜査は難航したが捜査員の執念が実を結ぶ。
事件から数週間がたち、再度、現場周辺の防犯カメラを細かく解析したところ、事件当時、現
場で目撃された男と似た人物を確認。山根被告が浮上した。

+++++++++++++以上、MSN・NEWS+++++++++++++++

●若い人たちの反応

 事件の異常性もさることながら、若い人たちの、この事件に対する反応に、私は驚いた。
2チャンネルをのぞいてみると、つぎのような意見が、ズラリと並んでいた。

全体の2分の1から、3分の1以上が、殴られて殺された小牧伸一さんを非難したり、反対に、
殴った山根被告を擁護するもの。
(殴った男性を非難しているのではなく、殴られた男性を非難している!)

●2チャンネルより

 2チャンネルへの書き込みを、そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス 
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな 
正論だから腹が立ちともいうよな 
忘れられないクリスマスだな 
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして 
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが 
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。 
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない 
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。 
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。 
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら 
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた 
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな 
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw 
卑屈すぎるわ


★子供連れてるのに人に注意されるようなことをした父親の自業自得だろ 
子供の前で尊厳大事にしたかったら人に注意されるような行動をしなければいい


★いちいち注意した老害もゴミ 
殴り殺したDQNパパもゴミ 
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。 
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ? 
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に 
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな 
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに 
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて 
ただのあほ、そんだけのことだろ 
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし 
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず 
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。 
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね 
本人は分かっててあえてやってるんですから 
バカと言われたと同じです 
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●意識

 最近の若い人たちの意識が、私たちの意識とズレていることは、私自身も強く感じていた。
が、ここまでズレているとは、思ってもいなかった。

 若い人たちは、「77歳」という数字だけを見て、「ジジイ」と位置づけている。
その上で、事件の内容を吟味することなく、短絡的に、老人批判を展開している。
「2チャンネル」という、無責任な掲示板での意見だから、本気にとらえる必要はないのかもし
れない。
が、それ故に、かえって、現代の若い人たちの「本音」が、そこにあるとみてよい。

(もし注意したのが、30代、40代の男性だったら、どうだったのか?)

●段階の世代は「敵」

 この書き込みの中で、つぎの2つが、気になった。
「団塊」という言葉が、強く私の関心をひいた。

『団塊ってかバブル世代だったな。まあどっちにしても敵だけど』
『団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ』と。

 「v速」とは、何か。
それはさておき、ここで見られる若い人たちの意識は、180度、私たち団塊の世代のもってい
る意識とちがう。

 私たち団塊の世代には、それを意識しながら生きてきたわけではないが、「この日本の繁栄
を築きあげたのは私たち」という自負心がある。
同時に、ぜいたく三昧に明け暮れる若い人たちを見かけると、ときどき、「だれのおかげで、そ
んなぜいたくができるのか、わかっているのか?」と言いたくなるときがある。

 が、若い人たちの意識は、私たちの意識とは、ちがう。
私たち団塊の世代をさして、「敵」と。
こうした意識をもっているのは、若い人たちの中でも一部と、私は信じたいが、どうやら一部で
はなさそうだ。
すでにこうした傾向、つまり「世代間闘争」は、あの尾崎豊が、『♪卒業』を歌ったときから、始
まっていた。

●親バカからジジバカへ

 総じてみると、団塊の世代には、親バカが多い。
「子どものため……」と、自分の人生を犠牲にした人は多い。

「子どもだけには、腹一杯、メシを食べさせてやりたい」
「ひもじい思いだけは、させたくない」
「学歴だけは、しっかりと身につけさせてやりたい」と。

 が、そんな思いや苦労など、今の若い人たちにしてみれば、どこ吹く風。
気がついてみたら、老後の資金を使い果たしていた……。
それが団塊の世代。

 が、親バカなら、まだ救われる。
が、それが日本全体に及んだとき、今度は、ジジバカとなる。
私たちは「つぎの世代」を考えながら、この日本はどうあるべきかを、思い悩む。
考える。
が、肝心のつぎの世代にしてみれば、ただの(ありがた迷惑)。

 が、私たちの世代には、それがわからない。
「そうではない」という幻想にしがみつきながら、生きている。
が、幻想は、幻想。
それがわからないから、ジジバカ。
私たち団塊の世代は、今、とんでもないジジバカを繰り返している(?)。

 それを如実に表現しているのが、つぎの言葉。
少なくとも私がもっている「常識」とは、180度、ちがう。
180度、ひっくり返っている。

『……ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な
気分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ』と。

 その若者は、こう言っている。

 「カチンと来るような注意のされかたをしたら、イヤミや余計な一言を返し、相手も不愉快な気
分にさせるのは、当然。
それが常識のある、社会人としての行動」と。

●ゴミ

 60代、70代の人たちよ、覚悟しようではないか。
現在の若い人たちには、私たち老人に対する畏敬の念など、微塵(みじん)もない。
そういう若い人たちに、私たちの未来を託しても、意味がない。
期待しても、意味がない。

 ……というのは書き過ぎ。
またそうであってはいけない。
それはよくわかっているが、それが私たちの未来を包む現実。
この先、この傾向は、ますます強くなる。
こんな記述も見られる。

『ゴミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw』と。

 現に今、あくまでも風聞でしかないが、医療機関でも、「75歳以上は手術はしない」という考
え方が定着しているという。
現実にそんな規定があるわけではない。
その年齢以上になると、「年齢(とし)ですから……」と、治療を拒否されるケースも多い。
事実、私の兄は、担当のドクターに、こう言われた。
「私は治る見込みのある患者は、治療しますが……」と。

 つまり治る見込みのない患者(=兄)は、治療しない、と。

●同情

 ただ若い人たちが、忘れていることが、ひとつ、ある。

 現在、「若い人たち」と呼ばれている人にしても、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
自分たちだけは、ジジ・ババにならないと信じているかもしれない。
が、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
そしてそのとき、そのジジ・ババを取り巻く環境は、今よりも過酷なものとなる。
2050年……つまり38年後には、約3人に1人が、そのジジ・ババになる。
(=1・2人の実労働者が、1人の老人を支える時代になる。)

 現在25歳であれば、25+38=63歳!
若い人たちよ、それがあなたの未来だぞ!

 そのとき、今、天に向かって吐いた唾(つば)が、自分の顔に落ちてくる。
が、私はけっして、現在の若い人たちのように、「ザマーミロ!」とは言わない。
「かわいそうに」と同情する。

●小牧伸一さん

 小牧伸一さん、あなたの死は、けっして無駄にしない。
こういう事例では、注意するほうも、不愉快。
できれば、事なかれ主義でもって、無視したい。
しかしそれがあまりにも目に余った。

「信号を守れ」というのは、相手のことを思って発した言葉。
自分のためではない。
信号を無視すれば、その相手が事故に遭う。
小牧伸一さんは、それを心配した。
だから相手を注意した。

 が、心配してもらったほうは、逆ギレ。
あなたを逆に殴った。
こんなバカなことが「常識」というのなら、そちらの常識のほうが狂っている。

 殴った男は、本物のバカ。
どうしようもない、つまり救いようがない、バカ。
徹底して法の裁きを受ければよい。

 が、残念ながら、今、こういうバカが、ふえている。
言うなれば、これはまさに、善と悪の闘い。
善が勝つか、悪が勝つか……。

●もうすぐ浜松

 先ほどJR掛川駅を出た。
あと10分足らずで、浜松に着く。

 ……今回の講演旅行は、これでおしまい。
来週は、M町での講演会がある。

 なお今回は、沼津のご用邸を見学することはできなかった。
来月、沼津で講演する機会があるので、またそのとき見学してみたい。

 では、また。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 金谷 韮山 はやし浩司の講演
会 講演旅行 はまゆう会館 沼津ご用邸)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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    MMMMM
 m | ⌒ ⌒ |
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   ┃来月もよろしく┃
┃はやし浩司  ┃
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【職業意識】(はやし浩司 2012−01−11)

+++++++++++++はやし浩司

『職業は人を作る』と言う。
それはその通りで、ひとつの職業を長くつづけていると、
その職業がもつ、独特の雰囲気を身つけるようになる。
それだけではない。
独特のものの考え方、生き様まで、身につけるようになる。

私がそれをはじめて知ったのは、ある幼稚園でバスの運転手と
話していたときのことだった。
その運転手は、こう言った。

「わしら、毎日、〜〜をしろと、きちんと言ってもらわないと、仕事ができない。
あんたは、よくやるねエ」と。

私が、時間に決められた仕事をしていると話をしたときのことだった。

で、ちょうど同じころ。
今度は、ガソリンスタンドを経営している友人が、こう言った。
「林さんは、〜〜時から〜〜時までというような仕事をしているが、ぼくには、
とてもまねできないよ」と。

印象的に残ったのは、つぎのように言ったこと。
「もし時間で仕事を区切られたら、ぼくなら、気が狂ってしまうよ」と。
「気が狂ってしまうよ」という言い方が、強く印象に残った。

バスの運転手は、だれかにきちんと指示してもらわないと仕事はできないと言う。
ガソリンスタンドを経営している友人は、時間で決められた仕事はできないという。

この問題だけは、「私は私」「人それぞれ」というだけでは、簡単には片づけられない。
その人の個性というよりは、仕事によって、その人は、(作られていく)。
職業というものは、そういうもの。
またそういう視点で見ないと、その人を理解することができない。

+++++++++++++はやし浩司

●読者からのメール

 Y市に住む読者から、こんなメールが届いた。

『……私の高校はK県では、一番の進学校で170名ぐらいの同期の4分の1は東大へ進学し
ます。
理系文系半々です。

東大法学部に行った仲間の何人かは、国家公務員になりました。

私の高校はミッション系で、(私は信者になりませんでしたが)、神を中心とした教育をされてい
ましたので、社会にでても周りの環境にあまり影響を受けませんでした。

しかし官僚になった仲間だけは別です。
同期会でXX局長になったり、高級官僚になったりした仲間がいます。
そういう連中とはすぐ喧嘩になります。

大企業の社長になった仲間や裁判官や弁護士になった仲間もいますが、同期会では昔のまま
の感じで話をします。
が、官僚になった仲間だけはちがいます。
上から目線で話をするのです。

それを指摘して喧嘩になるのです。
本人は自分が偉そうに話していることに気が付いていません。

明治以来の官僚を作るための帝国大学、入省してからの環境が自分を見失わせるようです。
本当に勘違いも甚だしい優越感をもった人たちです』と。

●優越感

 メールには、『明治以来の官僚を作るための帝国大学、入省してからの環境が自分を見失
わせるようです』とある。

 こうした優越感は、私も、そのつど、強く感ずる。
みながみな、そうではない。
が、そういう(感じの人)が、多いのも事実。
侍意識というか、「日本を指導しているのは、オレたち」という意識である。
称して『オレたち意識』。
昔、アメリカのニューズウィーク誌は、『オレオレ意識』と表現した。

H市のある役人(部長職、当時)は、こう言った。
私が、「どうしてH市は、XXパークとか、YYパークとか、そんなものばかりを作っているのです
か」と聞いたときのこと。

「いいですか、林さん、H市は工員の町ですよ。
工員には金をもたせてはいかんのですよ。
働かなくなりますからね。
だから金(マネー)を使うようにしむける。
そのための施設ですよ」と。

 こういうことを平気で、堂々と口にするところが、恐ろしい。

●職業意識

 それぞれの人が、それぞれの職場で、どのような職業意識をもとうが、それはそれぞれの人
の勝手。
私にもあるし、あなたにもある。
どれが正しくて、どれがまちがっているか、そんなことを論じても、意味はない。
ただこういうことは言える。

 私たちが常識としてもっている職業意識ほど、アテにならないものはないということ。
私がそうだからといって、相手もそうだと思ってはいけない。

 ……と書いたが、この問題は、すでにいつか論じたような気がする。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「スケジュール」について。
書いた日付はわからないが、1999年ごろと思われる。
一部、内容がダブル点については、許していただきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●スケジュール

 自分が時間でしばられるのは、いやなくせに、その一方で、そのスケジュールをたてないと、
行動できない。いったい、この矛盾を、どう考えたらよいのか。

 「今日は、11時に風呂に入って、12時ごろ、銀行に行くから」と、今朝も、起きて、ワイフに、
そう言った。

 つまりそういうふうに、自分の行動に区切りを入れないと、ダラダラと時間だけが流れてしま
う。
緊張感も生まれない。

 人間というのはおかしなもので、「さあ、時間はたっぷりあるぞ。何か原稿を書け」と言われる
と、とたん、ものが書けなくなってしまう。
しかし、「あと2時間しかないぞ。さあ、どうする」と言われると、とたんに、文章がスラスラと頭の
中から出てくる。

 しかしこれは、私だけの現象か?

 昔、幼稚園バスの運転手がこう言った。
「私らは、きちんとスケジュールを決めてもらわないと、仕事ができない」と。
同じころ、ガソリンスタンドを経営している男は、こう言った。
「時間単位のスケジュールを決められたら、息苦しくて、気が狂ってしまう」と。

 人は、人それぞれで、生活の中で、その人につくられていく。

 私も、そうで、今の私も、結局は、自分の仕事の中で、つくられた「私」にすぎない。

 そしてこのこと、つまりこうした私がかかえる矛盾は、人生という、大きな流れの中にも、あ
る。

 人生の中では、「時間」が、「年齢」になる。

 「〜〜歳までには、こうしよう」「〜〜歳になったら、こうしよう」と考える。
本当のそうするかどうかは別にして、たとえば「65歳になったら、老人ホームへ入ろう」とか、
「70歳になったら、世界を一周しよう」とか、そういうふうに、考える。

 もっとも、それは、順調にいったらの話で、その前に、いろいろあるかもしれない。
交通事故、重い病気などなど。
もともと自由というのは、そういうふうにして自分の体をしばっている、ヒモやクサリを解き放つ
ことをいう。
が、しかしそういうヒモやクサリが、向こうから、勝手にからんでくることがある。

 そういうふうに考えていくと、本当のところ、人生のスケジュールを決めるのは、「年齢」ではな
い、「健康」だ。
「頭の能力」だ。……ということがわかってくる。

 私の身のまわりにも、頭がボケてしまって、使いものにならなくなってしまった人が、たくさん
いる。
それなりに、平和に暮らしてはいるが、私からみれば、死んだも同然。
人間は、考えるから、人間。

 私も、もうすぐその(死んだも同然)の人間になるかもしれない。
それまでの勝負。
私は、どこまで生きられるか。
どこまで深く、生きられるか。
この緊張感があるから、今日も、こうして原稿を書く。……書ける。

 それにしても、最近私が書く原稿は、どれも駄作ばかり。
鋭さが、どんどんと消えていくのが気になる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●本題

 12年ぶりに、同じような原稿を書いているのを知る。
むしろ12年前の私の方が、鋭い(?)。
生き様を、人生論という、長いスパンで考えている。
言い換えると、ではこの12年間、私は何をしていたのかということになる。
進歩、ゼロ!

 それはともかくも、さて、本題。

●「私」とは?

 こうして考えてみると、「私」と言われる部分についても、そのほとんどが、環境の中で作られ
ていくものということが、よくわかる。
私は私のように作られてきた。
あなたはあなたのように作られてきた。

 が、大切なことは、それぞれがそれぞれを認めあうこと。
……と書きたいが、官僚がもっている、あの独特の優越感だけは、認めがたい。
どうしてああまで威張れるのかと思えるほど、威張っている。

 と書くと、話がバラバラになってしまう。
生き様論を書けばよいのか。
役人論を書けばよいのか。

最初は、役人論を書くつもりだった。
しかし今は、人生論を書きたい。
あるいはその共通性は、何なのか。

●裸で生きる

 要するに、人間は裸で生きる。
あるがままで生きる。
それが基本。
その基本を忘れるから、職業によって、その人が作られてしまう。

 もちろん役人がみな、役人風を吹かすわけではない。
私の友人の中にも、その役人(官僚)になったのが、何人かいる。
が、どの男も、会って話すと、庶民的で、威張ったところはない。
独特の言い方はするが・・・。
もっともこれについては、役人のもつ2面性の問題が絡んでいる。

●侍の世界

 学校の教師もそうだが、内部では、結構、仲が悪い。
たがいに、いがみあっている。
足の引っ張りあい、いじめは、日常茶飯事。
が、こと外部に対しては、団結する。
総じてみれば、役人の世界も、同じ。

 つまり外から見て「威張っている」からといって、内部でもそうだと考えてはいけない。
ある友人は、こう言った。
「役所というところは、おもしろい世界でね。
組織と人事だけで成り立っている世界だよ」(K県・県庁勤務)と。

 外から見ると、情報だけで成り立っている世界に見える。
どうであれ、組織、つまり上下関係だけで成り立っている。
彼がいう「人事」とは、「身分」をいう。
そこはまさに、「侍の世界」。

●上下意識

 が、このことは、私たち自身にも言えること。
男たちだけの話ではない。

 浜松には、都市銀行の家族寮がいくつかある。
その家族寮。
夫の役所に応じて、妻たちの上下関係も決まるのだそうだ。
会合があっても、夫の地位の順に、妻たちが並ぶ。
通路を歩いているときも、夫の地位の低い方の妻が、道を空ける、など。
妻の年齢とか、キャリアは問題外。
(ただしこの話を聞いたのは、2000年ごろ。
それから12年。
今は、変わったかもしれない。)

「組織」というのは、そういうもの。

●生き様の中で

 生き様の中ではどうか。

 私自身は、時間に決められた生活をしながら、人生においては、それに抵抗している。
あるいは日常的な生活感覚で、人生をながめる。
少し前までは、こう考えていた。

「60歳になったら、〜〜しよう」
「65歳になったら、〜〜しよう」と。

 この考え方は、「10時になったら、〜〜しよう」
「2時になったら、〜〜しよう」という生活感覚と、どこもちがわない。

 が、実際、この年齢になると、こんなことに気がつく。
「年齢というのは、ただの数字」と。
時計で示される時刻とは、まったく異質のものである。
もっとはっきり言えば、年齢など、無視すればよい。

 仕事ができる間は、仕事をする。
仕事がある間は、仕事をする。

●相手にされない

 こうして考えていくと、結論は、こうなる。
「威張りたい奴には、威張らせておけばいい」と。
そういう人たちにかぎって、やがてその落差に苦しむときがやってくる。
というのも、地位や役職にしがみついて生きてきた人ほど、それを手放すことができない。
退職してからも、それを引きずる。

 私の知人の中には、そういう人が多い。
70歳になっても、75歳になっても、現役時代の肩書を引きずっている。
中には、半世紀も前の学歴を引きずっている人もいる。

 が、そういう人ほど、世間に相手にされない。
嫌われる。

●色眼鏡(いろメガネ)

 言い換えると、現役であるにせよ、退職後であるにせよ、裸で生きる。
その基本だけは、忘れてはいけない。
つねに自分のありのままの姿を見据える。
それが基本。

 もっとも私たち団塊の世代は、地位や肩書にあこがれた。
『末は博士か大臣か』と。
当時は、今よりずっと、江戸時代の身分制度が色濃く残っていた。
結果として、企業戦士になり、一社懸命でがんばった。
戦時中の愛国心が、戦後は愛社心に姿を変えた。
それが今に見る、日本の繁栄の基礎を作った。
が、それはそれ。

 私たちは同時に、そういう色眼鏡をはずさねばならない。
つまり私たちは相手を見るとき、無意識のうちにも、相手を地位や肩書で判断する。
そういう色眼鏡をはずさねばならない。

●1匹のネズミ

 私はあるとき、「ぼくだけは、たった1人で生きてみよう」と思った。
そのきっかけを作ったのは、ネズミだった。
その話は、『世にも不思議な物語』の中で書いた。

それをそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて【26】

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ−ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも
一、二週間を過ごした。
「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街
地より広い。
その牧場でのこと。

 ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波を打つように、波うっていた! 
見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。
……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。

 しかも、それぞれのネズミに個性があった。
農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。
あのパイドパイパ−の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているが、そ
ういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。
私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわす
ことになるから……」と。

 農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。
こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。
そこで私たちはネズミ退治をすることにした。
方法は、こうだ。

 まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。
次に中央に腐ったチーズを置いておく。
こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の
中に落ちたる。
が、何と言っても数が多い。
私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかっ
た。

 が、三日目の朝。
起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。
友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向か
ったかのどちらかだ」と。
伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかっ
た。
移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。

 ネズミには、どれも個性があった。
そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。
が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。
一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。
ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ−マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。
なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。
また向かってしまったのかというテ−マだった。

 が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。
あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。
そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。
そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようにな
った。

 わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。
最近でもクロ−ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動
をすることが知られている。
そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。
……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。
それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。
「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。
皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。
日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

(注:もっと読んでくださる方は……http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●生き様

 私は「たった一匹のネズミ」になった。
が、これはけっして負け惜しみではない。
この40年間においても、「教授職」をオッファーされたことは、2度ある。
幼稚園の園長職については、そのつど何度か、ある。
しかし私は、あえて背を向けた。

 そういうネズミの立場で一言。

 この日本は、江戸時代をそのまま背負った、まさに後進国。
文化的後進国。
悲しいかな、日本自身が、その後進性そのものに気づいていない。
すでに42年前には、オーストラリアの大学では、教授も学生も、ファーストネームで呼びあって
いた。
会社にしても、一歩、会社の外に出れば、そこは友人同士の世界。
今でこそ、世界中どこへ行っても見られるようになったが、オーストラリアには名刺をもっている
人はいなかった。
職業意識そのものが、ちがった。

●社会のしくみ

 日本では、「何をしていますか?」と聞かれると、「S自動車に勤めています」などと答える。
ほとんどが、会社名を口にする。
オーストラリアでは、「何をしていますか?」と聞かれると、「機械設計士をしています」などと答
える。
自分のプロフェッショナル(専門職)を口にする。

 社会のしくみそのものが、ちがう。
欧米では、ユニオンといって、同業種の職業の人たちが集まって、組合をつくる。
日本では……、今さらここに書くまでもない。

●肩書や地位

 ともあれ、退職後の友人たちを比較してみると、(どちらが正しいとか、正しくないとか、そうい
うことではなく)、日本人とオーストラリア人は、まったくちがう。
日本人は日本人だが、オーストラリア人は、その点、さっぱりしている。
過去の肩書や地位で、自分を飾っている友人は、ゼロ。
まったくいない。

 どんな立派な肩書をもっていた男にしても、ヨレヨレのジーパンで、日本へやってきたりする。
……というか、現役時代も、地位や肩書の話など、まったくしなかった。
私も聞いたことがないし、彼らもまた話さなかった。

●自己否定

 こうしたちがいを、いくら日本の友人たちに説明しても、理解すらできない。
……理解しようともしない。
思考回路がちがうというよりは、もしその(ちがい)を認めると、自己否定の世界に陥ってしま
う。
それを恐れる(?)。
「ぼくはいったい、何をしてきたのだ」と。

 が、今、日本は急速に変わりつつある。
また変えなければならない。
一匹のネズミの目で見ると、強く、そう思う。

●結論として……

 職業意識をもつのは仕方のないこと。
しかしそこに封建意識を混在させてはいけない。
あくまでも裸で生きる。
わかりやすく言えば、人間が生の人間を見て、その人間を判断する。
またそういうのを、「自由」という。
でないと、今に見るような、不公平ばかりが、先に立つようになる。

 ……役人の話と、生き様の話。
途中で話がバラバラになりそうだったが、これでひとつにまとまった。
ホ〜〜〜ッ!

 ……ということで、役人と生き様について、考えてみた。

(補記)

 どんな職業にあっても、気高く、誇り高く生きる。
……といっても、この日本では、そんなに簡単なことではない。
そのことは、私が、いちばんよく知っている。
この日本には、「まともな仕事論」というのがある。
(まともな仕事?)と(まともでない仕事?)がある。
60代、70代以上の人たちが、よく使う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「はやし浩司 まともな仕事」で検索をかけてみたら、
5310件もヒットした(ヤフー検索)。
2つほど、原稿を選んでみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己否定

仕事がなくなるという恐怖は、相当なもの。
とくに、「男は仕事だけしていれば、一人前」とか、「オレは家族を食わせてやっている」と、日ご
ろ言っている男性にとっては、そうである。
 
「仕事」が、その人のステータスになっている。
だからその仕事を失うということは、その人の価値が否定されることに等しい。

 が、こういう時代である。
私のような中高年への、世間の風当たりは、きびしい。数年前だが、大学の同窓会に出てみ
た。
が、公務員や自営業をのぞいて、民間企業に就職した仲間たちは、ほぼ全員が、リストラさ
れ、別の会社に就職していた。

 そういう時代である。

 もちろん公務員や自営業とて、例外ではない。
定年退職や、それに病気がある。事故もある。
そういうとき、同じように、「自己否定」という恐怖を味わう。

 それはすさまじいほどの衝撃である。
若いときなら、やりなおしがきく。
しかし50歳もすぎると、そうはいかない。
やりなおすという発想そのものが、消える。
が、それだけではない。
プラス、生活の不安が、どっと襲ってくる。
とくに自営業のばあいは、失業イコール、無収入となる。

 だから……。
 仕事は、大切なものだが、同時に、その仕事がなくなったときの自分を考えておくことも、重
要なことである。
別の仕事を用意するということではない。
仕事がなくなったときの心構えというか、そういうものを、考えておく。
あるいは、老後の生きがいというものを、積極的に用意しておく。

 それは、老後の貯金のようなものかもしれない。

 ……と書くのは、実は、自分のため。
自分に言って聞かせるため。
と、同時に、実は、私は過去において、何度も、その自己否定の恐怖を味わっている。
毎日が、その連続といってもよい。
私がしているような仕事のばあいは、一度に、その恐怖がやってくるということはない。
そのかわり、その恐怖が、分散してやってくる。
が、だからといって、恐怖感が小さいということはない。
ときには、その分散した恐怖が、波のように集まって、襲ってくることもある。

 いつということは、書けないが、毎日、床の上で、天井を見あげながら、どうしようかと、思案
に暮れたこともある。
息子の寝顔を横で見ながら、涙をこぼしたこともある。

 しかし今、私には、かろうじてだが、仕事がある。
毎朝、起きると、やることが決まっている。
生きがいも、ある。
健康も、まあまあ。
で、ふと、こう思う。

 「できるだけ、こういう状態を、大切に、長くつづけよう」と。
それは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。
決して、おおげさな言い方ではない。
そうした実感は、年々、強くなっている。

 で、今は、もう、大きな目標は、ない。
目的も、ない。現状維持ができれば、御(おん)の字。
健康でいられるだけでも、感謝しなければならない。
そういう立場である。

 その私のこと。
もしいつか、自己否定するようなことがあれば、私はもう生きていないだろうと思う。
自己否定イコール、死と考えている。
多分というより、まちがいなく、私は自己否定の恐怖感には、耐えられないだろうと思う。

【補記】

 こうした困苦は、だれにでも起こりうるものだが、だれかがそうなったら、静かな、そ
して暖かい無視が、一番、よい。

 いらぬお節介は、タブー。
いわんや興味本位、個人的な好奇心で、その人の不幸を、のぞいてはいけない。

 が、世の中には、無神経な人が多いのも、事実。
ある日、いきなり電話がかかってきて、「林君、今のような仕事は、やめて、もう少し、まともな
仕事をしてはどうかね? 
今の仕事じゃあ、老後が心配だろう」などと言ってくる。
(この話はホントだ!)

 もちろんその人から、相談があれば、別。
そのときは、親身になって、相談にのってあげる。

 が、おかしなもので、自分が苦労しているときほど、その人の真価がわかる。
私も何度か、そういう波を越えて、(つきあう人)と、(つきあってもムダな人)を、よりわけてき
た。
言うまでもなく、ムダな人と、ムダなつきあいをするのは、それ自体が、時間のムダ
である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不幸をのぞく人

 先の原稿の中で、2人の人について、書いた。
「他人の不幸をのぞいてくる人」と、「まともな仕事をしたらどうかね言っていた人」。
実はこの2人は、同一人物である。
若いころから年長風を吹かし、あれこれと言ってくる。
用もないのに、電話をかけてきて、私の家の事情を聞きだそうとする。
あるときは、こう言った。

「浩司君、今朝、君の夢を見たから……」と。
 
 聞きだす方は興味本位かもしれない。
が、聞かれる方は、つらい。
そのつらさは、経験のある人でないと理解できないだろう。
ともかくも、つらい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、「まともな仕事」について
書いた原稿を載せる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++はやし浩司

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++はやし浩司

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                       ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに対
して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。

「結婚した方がよい」は、5年前の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える
人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

 これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結
婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

 問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

 先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 
結婚観 サイレント革命 はやし浩司 男尊女卑)

+++++++++++++

さらに7年前に書いた原稿が
つぎのもの。

+++++++++++++はやし浩司

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。
しかしアメリカでは、「部屋から出るな」と言う。
もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。
「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。
私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。
日本からの移民は、仲間どうしが集まり、集団で行動する。
その傾向がたいへん強い。
リトル東京(日本人街)が、そのよい例だ。
この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。
人里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。
日本人は、集団からはずれることを嫌う。
だから「出て行け」は、バツとなる。
一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。
自由を奪われることが、彼らにしてみればバツなのだ。
集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。
『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。
集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。
この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。
日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。
農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。
それだけではない。
日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。
戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

 要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。
しかし今、それが大きく変わろうとしている。
若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。
イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。
「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。
一つは、旗を立てて集団で来る日本人。
年配者が多い。
もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。

日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、1
2%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。
職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。
30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。
これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。
フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしてい
る。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。
それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。
ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※ ……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。
約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。
その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。
「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すらいる。
しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。
実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。
いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事
論)

 先にあげた男の基準からすれば、たとえば銀行のような企業に勤めることは、「まとも」という
ことになる。

私がしているような仕事は、「まともでない」ということになる。
が、これこそまさに、江戸時代の身分制度の亡霊。
その亡霊が、いまだにこの日本で、のさばっている!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●まとめ

 以上、「職業と意識」について考えてみた。
役人論は、その一部ということになる。

 どうであれ、つぎの瞬間には、私も人生を終える。
10年後?
20年後?

 それが何年であれ、瞬時。
つぎの瞬間には、私はこの宇宙もろとも、消えてなくなる。
ただ、つぎの世代には、よりよい時代を残したい。
そのためにも、変えるべきものは変えていきたい。
その方向性は示しておきたい。

 こと職業に関していえば、そこには(意識)の問題が絡む。
変えるといっても、それこそ10年、20年単位の時間が必要。
あせってもいけないし、さりとて放置しておいてもいけない。

 私は一匹のネズミとして生きたが、昔からこう言う。
『一寸の虫にも、五分の魂』と。
その「魂」の部分を、つぎの世代に残していきたい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●究極の食事法 (ジョーク)

 オーストラリアの友人が、新しいジョークを作り、それを送ってくれた。

...for those of you who watch what you eat, here's the final word on 
nutrition and health. It's a relief to know the truth after all those
 conflicting medical studies:
(食事に注意を払っている人に、究極の食事法が、ある。医学的問題に
かかわっている人には、この事実を知ることは、とてもよいことだ。)


1. The Japanese eat very little fat and suffer fewer heart attacks
than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、脂肪をほとんどとらないし、そしてアメリカ人、オース
トラリア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が少ない。)


2. The Mexicans eat a lot of fat and also suffer fewer heart attacks 
than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(メキシコ人は、たくさんの脂肪をとるが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


3. The Japanese drink very little red wine and suffer fewer heart
attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、ほとんどワインを飲まないが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


4. The Italians drink large amounts of red wine and also suffer fewer 
heart attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(イタリア人は、大量の赤ワインを飲むが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


5. The Germans drink a lot of beer and eat lots of sausages and fats 
and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ドイツ人は、たくさんのビールを飲み、たくさんのソーセージと脂肪を
とるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナダ人より、
心筋梗塞になる人が、少ない。)


6. Ukrainians drink a lot of vodka, eat a lot of perogies, cabbage 
rolls and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ウクライナ人は、たくさんのウォッカと、たくさんのペロシチ巻きを
たくさん食べるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナ
ダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


CONCLUSION: Eat and drink what you like. Speaking English is 
apparently what kills you.
(結論:好きなだけ、飲んで食べろ。英語を話すことが、心筋梗塞の原因
ということが、これで証明された。)

+++++++++++++++++++

お返しに、私も、ジョークを考えた。
こういうケースでは、つまり友人が
何かジョークを言ったら、それに答
えて、何か有益な知識を、返すのが
この世界の礼儀になっている。

+++++++++++++++++++

日本では、鼻先から、唇までの長さが、ペニスの長さということに
なっている。古くは、中国の医学書にも、そう書いてある。
(The length between the bottom of the nose and the edge of the upper
lip shows the length of dick, as has been written in Chinese Medical
book.)

つまりこの部分が、長い人は、ペニスも長いということになる。
このことから転じて、スケベな心境になることを、この日本では、
『鼻の下を長くする』という。
(This means those who has longer length between them has a longer
dick. And we say, therefore, in Japan, "he has a longer length under the
nose", which means that he is horny.)

しかし英語では、ペニスを「角(つの)」にたとえる。
スケベを意味する、「H(エッチ)」は、「ホーニィ」、つまり「角
のようになった(ペニス)」という意味から、きている。
(In English, however, the dick is often imitated as a horn and therefore
English people would often say, "he is horny", or he is sexually excited.)

いろいろな説があるが、これは、「H(エッチ)」という言葉が
日本でも使われ出したころ、私が、アメリカ人の男性に直接聞いて
確かめたことである。
(And then we say, "he or she is H, which means he or she is a sex maniac.")

で、どちらが科学的かというと、やはりアジア人のほうに、軍配
があがる。
(But which is more scientifically logical? Or Chinese medical is much
more logical.)

人間には、九つの穴(女性は、十)がある
(We have 9 holes in our body. Ladies have 10. Count them when you feel free.)

これらの穴の大きさは、比例しているという。
つまり女性器の性能(まさに「性」能)は、その穴の大きさで決まる。
もちろん小さければ、小さいほど、よい。
先ほど、不慮の交通事故でなくなった、ダイアナ王妃のようでは困る。
(日本語で、「ダイアナ」は、「大きな穴」を意味する。念のため。)
(Those who have bigger holes have bigger holes and small holes, small
holes. Those who have big nose-holes have bigger 10 holes.
For example the ex-Princess of England, Ms. Dyana had bigger nose-holes.
This means she had big holes. As a matter of fact "Dyana means
in Japanese, Dai=big ana=holes.

そこで元来、鼻先から、唇までの長さが短い白人の男性と、元来、鼻の穴の大きな白人の女
性が、結婚したらどうなるか。
(Then what happens in case when the white man who has a shorter
length between the nose and lip marry to a woman who has big nose-holes?)

【結論】つまり、それが白人社会では、離婚率が高いという理由である。
Conclusion…(This is the reason why more couples get divorced in western world.)

+++++++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【年長児・5〜6歳児に「平均」「平均の概念」を教えてみました】
(実験教室byはやし浩司)

●小2用の教材を使い、幼稚園児に「平均」を教えてみました。
「できるかな?」という心配はありましたが、結果は、ご覧の通りです。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/XKDpGtBvS5k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/j23on-gKylw" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/U80Nz4O1h7k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



Hiroshi Hayashi+++++++++++Jan. 2012+++++++++++++++はやし浩司


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【平均値の学習】(小学1年生&小学2年生)

小学1&2年生に、平均値についての学習を進めてみました。
結果は、ご覧の通りです。
最初に、5分程度遊んであげると、そのあとの学習効率がぐんと高くなります。
子どもたちの脳が、全開状態になるためと、現象的に、私はそう理解しています。
Happy & Active Children learn Best.(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)
ですね!

●小学1年生

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/lANBE7aSSIM" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/BwCa9diMcps" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/kMMPU6dcIK4" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/Q6oPAspjgoI" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小学2年生

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/tB_LNwi99Ec" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/cDURMHiBD6k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/iXADIa7EL8E" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/9XxULZBxw5g" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 平均値の学習 平均の勉強 小
学1年生 平均を教える はやし浩司 平均の概念を教える)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【山荘より、自宅まで歩く?】(はやし浩司 2012−01−11朝記)

+++++++++++++++++++

一度はしてみたい。
いつもそう思っていた。
2年ほど前、夏の暑い夜だった。
そのときも、そうした。
が、あと4〜5キロというところで、足がつった。
歩けなくなった。
あえなくギブアップ。
たまたま近くにあった交番で、電話を借りた。
ワイフに迎えに来てもらった。

で、今朝、再び、それを実行することにした。
2012年。
1月。
午前2時20分。
64歳。
初老男の、大チャレンジ。

山荘から、自宅まで、歩く。
距離は30キロ。

++++++++++++++++++++

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677209945/

●午前2時

 今朝は、午前2時に目が覚めた。
悪夢で、目が覚めた。
内容はよく覚えていない。
ハラハラ、ドキドキの悪夢。
いつもパターンは、決まっている。

 どこかの山道を歩いている。
目的とする町へ向かっている。
が、どこかで道をまちがえたらしい。
海の見える道を歩いている。
海の中には、魚が泳いでいる。
それを見ながら、「この道ではない」と自分に言って聞かせる。

 どうしてそんな夢で、目が覚めるか……?
今も、そう思う。
思うが、ハラハラ、ドキドキ。
「バスが出る時刻だ」と。
私はその町からバスに乗って、家に帰る。
その時刻が、どんどんと近づいてくる。
が、私は海の魚をぼんやりとながめている。

 ハラハラ、ドキドキ……。

●歩いてみよう

 寝返りをうつと、ワイフも目を覚ました。
「眠れないの?」と。

私「うん、なあ、ぼくね、今朝、家まで歩いてみようと思う」
ワ「今朝……?」
私「一度は、してみたいと前から思っていた」
ワ「……」
私「今から出かければ、6時半には家に戻れるはず」と。

 布団の中でそんな会話をしたあと、飛び起きた。

●出発

 正月太りで、タプタプした腹を、ジーパンで押さえる。
さらにそれを、上から分厚い皮ジャンで、押さえる。

 ワイフが4000円、渡してくれた。
「歩けなくなったら、コンビニでタクシーに乗ってね」と。

 私はお茶を2杯、ぐいと飲み干した。
ペットボトルのお茶を、ポケットにねじこんだ。
時計を見ると、午前2時20分。
いざ、出発!

●下り坂

 幸い、満月だった。
それに冬場は、毒蛇もいない。
家を出た瞬間、山の冷気が皮ジャンの下から、スーッと入り込んできた。
が、それもすぐ消えた。

 最初の3キロは下り坂。
私は杖をつきながら、ゆっくりと歩いた。
下り坂で、急ぐと、膝(ひざ)の関節を痛める。
……というか、すでに左足の膝の下が、軽く痛んでいた。

●満月

 こういうとき満月は、ありがたい。
といっても、月は薄い雲に覆われていた。
ぼんやりとした月だった。
しかしそんな月でも、ありがたい。
月の光がなかったら、山道など、とても歩けない。
夏場は、とくに危険。
毒蛇が道路で、とぐろを巻いて休んでいる。

 毒蛇だけではない。
このあたりには、イノシシやサルも出没する。

 言い忘れたが山荘を出るとき、いつも使っている懐中電灯の電池が切れていた。
それで今朝は、懐中電灯なし。

●写真

 私は歩きながら、ときどき写真を撮った。
最初は、フラッシューを使った。
しかしうまく撮れない。
そこでフラッシュをOFFにし、高感度で撮った。
が、そうすると、そのつど立ち止まり、カメラを固定しなければならない。
それに時間がかかった。

 電車にたとえるなら、各駅停車。
写真を撮りながら、「これでは6時半は無理だな」と。

●昔の人

 昔の人……たとえば江戸時代の人は、どこかへ行くときは、朝、出発したにちがいない。
朝といっても、午前3時とか、4時。
深夜に近い、早朝。
冬場は、午後6時には、真っ暗になる。
今のように電気のない時代だから、床に就くのも早かったはず。
午後7時ごろに寝れば、午前2時には、7時間、眠ったことになる。
7時間眠れば、じゅうぶん。
それから支度を整え、出発は、今ごろ。
午前3時。

 夏だったら、それくらいの時刻だったかもしれない。
が、そのときも、明かり。
明かりが問題。
ワイフは、いつか、「昔の人は、行燈(あんどん)をもって歩いたのかしら」と言った。
「そんなもの、もっていたら、歩けないよ」と、私は答えた。

 杖は、必需品。
足場が悪いときは、杖で、ころぶのを避けることができる。
毒蛇を、叩いて殺すこともできる。
イノシシやサルも、それで追い払うこともできる。

私は歩きながら、こう考えた。
「そのときも、月が重要な役割をはたしていたはず」と。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677213865/

●月明かり

 私は昔、徳川家康が武田信玄に追われ、この道を歩いたという。
その道を、逆コースで、街に向かって歩いた。
逃げる徳川家康。
それを追う武田信玄。
徳川家康は、この奥にある「万光寺」という寺で、一夜を過ごしたという。
ともに月明かりを助けに、そうした。

 そういうことが、夜中に、こうした道を歩いてみるとよくわかる。
もっとも今は、8トン車でも走れるほど、道は整備されている。
その昔は、獣道(けものみち)だったにちがいない。

●30分

 ウォーキングマシンでも、30分も運動をすると、全身に汗が流れる。
山の道でも、30分も歩くと、体中が熱くなってくる。
汗こそ出ないが、小便が近くなる。
「脂肪が尿になったのかな……」と、最初の野外放尿。

●せせらぎの音

 川沿いの道を歩いているとき、その下のせせらぎが聞こえてきた。
「?」と思ったが、せせらぎだった。
あたりが静かだと、せせらぎが聞こえる……。
今まで車で、何百回となく往復した道だが、せせらぎを聞いたのは、はじめて。
それにこうした夜道では、1〜2キロ先の、車の走る音が聞こえる。

 江戸時代には桜島(鹿児島県)の爆発音が、江戸(東京)でも聞こえたという。
何かの本で、そんなことを読んだことがある。
昔の人たちは、今より、ぐんと静かな世界で住んでいた。

●撮影

 首にカメラの紐(ひも)をかけた。
そのカメラが、歩くたびに揺れる。
揺れて、首をうしろから絞める。
が、しばらく歩いていると、それを重く感ずるようになった。
たかがカメラ……。
500グラムもないはず。

 そう思いながら、カメラをポケットにしまう。
30分を過ぎるころから、写真を撮る回数が、ぐんと減った。
疲れたというより、その余裕がなくなった。
歩くだけで、精一杯。

 山の下からからは平地になるが、その平地も、結構、山坂になっている。
何度も「足はだいじょうぶかな?」と、自分に問いかける。

●講演の練習

 最初、歩きながら、小さな声を出し、明後日の講演の練習をした。
明後日は、2か所で講演をすることになっている。
帰りに、沼津のH会館で一泊。

 が、その元気も、30分で途切れた。
時計を見ながら、家に着く時刻を、何度も計算しなおす。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677214273/

●30キロ

 高校生のとき、年に1度、30キロを歩いた。
「強歩」と呼んでいた。

 そのときの自分を思い出す。
……と言っても、汗を流しながら歩いたというわけでない。
散歩感覚。
みなと、遊びながら歩いた。
記録をねらっている学生は別として、大半の私たちは、そうだった。
が、それでもそのあと、(たいていは翌日だったが)、足が痛くなって歩けなかったのを覚えてい
る。

●金指の町

 午前3時に、金指の町あたりまで来た。
その午前3時に、町のチャイムが鳴った。
ビッグベンの鐘の音。
かなり大きな音だった。
「午前3時にチャイム?」と。

 市内でこんなチャイムを流したら、それこそ猛攻撃を受けるはず。
「うるさい!」と。
時計と見比べながら、そう思った。

(金指の人たちは、それをうるさいと思わないのだろうか?
午前3時のチャイム、だぞ!)

●信号

 信号を何か所か通り過ぎた。
が、信号を守る車は、あまりなかった。
たいてい80キロ近いスピードで、信号を通り抜けていった。
最初の2、3つ目くらいまでは、私も、信号を守った。
が、そのうち、それを繰りかえす自分が、バカに見えてきた。

 前にも、うしろにも、人影はない。
走る車もない。
そんなところで、信号待ち?

●T山

 途中、1回だけ、山荘のあるT山を振り返った。
月明かり……というか、雲全体が、光っていた。
その雲を背景に、ぼんやりと山が見えた。
山がいつもより遠くに見えた。
「もう、こんなに遠くまで来たのか」と。

●老後への抵抗

 なぜ歩くか?

 そんなことも考えた。
というのも、こうした行動には、内側からの大きな動機が働いているはず。
無意識の世界からの動機。
その動機は何か?

 ……ひとつには、老いゆく自分への抵抗。
これは私だけではない。
今まで、多くの先輩たちがそうしてきた。
身近にも、そういう人たちがいた。

 だいたい60〜65歳前後になると、みな、判を押したように、何かの運動を始める。
「健康維持のため」とは言うが、もうひとつその奥には、別の意識がある。
それがここに書いた、「老いゆく自分への抵抗」。
「このまま老いてたまるか!」と。
そんな思いが、原動力となり、自分を動かす。

 が、それも長つづきしない。
病気をしたり、けがをする。
それがきっかけとなり、運動から遠ざかる。
とたん、5年単位で、あとは老後へとまっしぐら。

 今、私は、そのはかない抵抗を試みている(?)。
そんな思いが、繰り返し、脳の中をかけめぐる。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677214569/

●痴漢

 ゆるい坂を上るところに、看板があった。
「痴漢、注意!」と。

 ふと「痴漢にまちがえられないだろうか」と思った。
が、すぐ、こう思った。
「こんな真夜中に、夜道を歩く女性もいないはず」と。

 ときどき、車が通り過ぎていった。
運転手の顔をみると、運転手が、みな、私のほうを見ているのがわかった。
「老人の徘徊とまちがえられているのかな?」と、私。

●徘徊

 私は徘徊する老人の心理が、よく理解できる。
夜中の散歩にしても、(散歩というより、強歩だが)、足の方が勝手にどんどんと動いていく。
自分の意思というより、足のほうが、勝手に動いていく。

 そういうときというのは、何も考えない。
同時に、悲しみも、さみしさも、消える。

あの坂本九が歌った歌に、『上を向いて歩こう』が、ある。
なぜ、あの歌が、ああまでヒットしたか。
その理由のひとつ……歩くことによって、多くの人たちが、救われているから。
私はそう理解している。

●サイトカイン

 ただ同じ歩くといっても、心の中は、からっぽにしたほうがよい。
恨みや怒り……ある程度のものは、歩くことで解消される。
が、その限度を超えた恨みや怒りとなると、そうはいかない。
歩けば歩くほど、心が苦しくなる。
というか、歩けなくなる。

 脳内にサイトカイン(ストレス性の悪玉脳内ホルモン)が充満する。
それが歩くことによって、増量される。

 ……実際にはどういうメカニズムが働くのか、私にはわからない。
しかし現象的には、正しい。
いやなことを考えながら運動をしていると、かえって不愉快になる。

私は努めて、何も考えないようにし始めた。

●「いつ死んでもいいや」

 おかしな心理状態に襲われたのは、1時間ほどたったときのこと。
「生きたい」という思いがあって、私は強歩に出たはず。
その私が別の心で、「いつ死んでもいいや」と思い始めた。

 夜の街道を町に向かって歩く。
それはまさしく私の人生を象徴している。
このまま歩けば、どこかで限界に来るはず。
すでにそのとき、家まで歩く自信はなかった。
時速5キロとしても、30キロを歩くには、6時間かかる。
時速6キロとしても、5時間。
私は最初、速足で歩くことを考えていた。
しかし、速足は、とても無理。

 「どうしようか?」という迷いが、何度も心の底からわいてきた。
そのとき、そう思った。
「いつ死んでもいいや」と。

 何度か、道路に倒れている自分を想像した。

●二度目の放尿

 ちょうど1時間ほど歩いたところで、二度目の野外放尿。
気持ちよかった。
同時に、ペットボトルのお茶を、半分、飲んだ。
冷たいお茶が、のどを下へ落ちていくのが、よくわかった。
気温は、4〜5度のはず。

 このところ浜松地方を寒波が襲っている。
数日前には、0度近くにまで、下がった。

 ……出る前に、トイレで1度しているから、1時間のうちに3度、放尿したことになる。
これは運動している人なら、みな知っている。
運動すると、体の新陳代謝が活発になり、尿の量がふえる。

●膝の痛み
 
 三方原(このあたりの人は、「みかたばら」と呼んでいる)の坂に、かかった。
その坂を上りきったところから、平坦な大地になる。
「台地」と書くのが正しいのか。
歩くのは楽。

 しかし左足が痛み出した。
膝関節の下が、歩くたびに、ヒヤッ、ヒャッと痛む。
「まずいな」と、何度も思った。

 ……というか、もう、頭の中はからっぽ。
思考力どころか、考えようとする気力そのものが、消えうせた。
……「マラソン選手もそうかなあ」と。

 一度マラソン選手も、携帯の録音機が何かをもち、走ってみるとよい。
どんなことを考えながら、走っているか……。
それを知りたい。
またそんな実況中継もあっても、よいのでは……。
もっとも考えながら走っていたのでは、あれだけの長距離は走れない。
まさに放心状態(?)。
そういう状態でないと、走れない。

 私もやや放心状態になり始めていた。
時計を見ると、午前4時を回っていた。
すでに2時間近くが過ぎていた。

●自動販売機

 途中、いつもミカンを買う、無人売り場を通り過ぎた。
お金を入れる箱は、そのままそこにあった。
(もちろん夜間は空箱になっているだろうが……。)
また場違いなところに、自動販売機があったのには、驚いた。

昼間は気がつかなかったが、夜は、よくわかる。
こうこうと明るい電気をともしている。
それが人通りのまったくない、藪(やぶ)の中にある。
それを見ながら、「日本は、いい国だなあ」と。

 外国だったら、すぐ襲撃されるだろう。
現金があれば、あっという間に、もっていかれる。

●ワイフ

 ペタペタと道路を歩く音。
杖でトントンと地面を叩く音。
同時に、歩くたびに、左足が痛む。

歩く速度が落ちてきた。
左足をかばい始めた。
歩き始めて、2時間半。
計算上では、山荘から10〜12キロの距離ということになる。

 と、そのとき、1台の白い車が、スーッと横に止まった。
見ると、ワイフだった。

ワ「心配だったから、来た」
私「ああ……」と。

 私は迷わず、車に乗り込んだ。

ワ「だいじょうぶ?」
私「それがね、あまりだいじょうぶではないんだよ」
ワ「どうしたの?」
私「足が痛み出してね……」と。

 こうして私の2度目のチャレンジも、失敗。
何とも言えない挫折感を覚えながら、シートの中に深く身を沈めた。

 車の中の表示では、「外気6度」となっていた。
それでも私は、暑く感ずるほどだった。

私「帰ったら、また寝よう」
ワ「そうね」と。

 家には、午前5時半ごろ、着いた。

 ワイフは、着くとすぐ、布団乾燥機のスイッチを入れた。
布団を暖めるには、布団乾燥機がいちばん、よい。
床に入ったとき、温泉につかったような気分になれる。
まだの人は、一度、試してみるとよい。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6677213603/

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 山荘から自宅まで歩く 山荘から自宅まで 強歩 はやし浩司 強歩)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【視覚とは何か】(はやし浩司、1999年ごろ記)改

++++++++++++++++++++++++

「視覚とは何か」。
この原稿が気になるのは、私たちが生きている世界が、
その視覚でできあがっているということ。
そこにあるモノが見えるということから始まり、
宇宙の果てが見えるというところまで進む。

「あの世論」にしても、そうだ。
モノが見えるが、基本になっている。
天国にしても、地獄にしても、モノが見えなければ、
そこは漆黒さえない、虚の世界。

では、モノが見えるということは、どういうことなのか。
そこから今朝は考えてみたい。

はやし浩司++++++++++++++++はやし浩司

●ぼんやりと見る

 ぼんやりとまわりの様子を見る。

 そのとき、無数のものが、ばくぜんと、目の中に飛びこんでくる。

 目の網膜でとらえられた映像は、一度視床下部(ししょうかぶ)を経由して、脳のうしろにあ
る、大脳の後頭葉(こうとうよう)の視覚野(しかくや)に送られる。

 (網膜)→(視床下部、外側膝状体)→(大脳後頭葉、視覚野)

 しかしこの段階では、すべての情報がばくぜんと、脳の中のモニターに映されることになる。
カーテンも、机も、カメラも、印刷用紙も……。

 そこで私は、その映像の中から、必要な情報だけを選びださなければならない。

 たとえば私は、ここで、パソコンのモニターだけを見たいとする。しかもその中でも、文字だけ
を見たいとする。

 そこで視覚野に映った映像は、いろいろに加工される。これを大脳生理学の分野では、二次
加工、三次加工と呼ぶ。

 (視覚野の映像)→(二次加工)→(三次加工)

 そのあと、こうして加工された映像は、主に二つのルートを通って、大脳の各部に送られる。

 (加工された映像)→頭頂葉連合野(1)
          →側頭連合野(2)

(1)の頭頂葉連合野へ送られた映像は、空間的な処理がなされるという。
たとえば脳の中でも、この部分にダメージを受けると、自分の位置関係がわからなくなるとい
う。

(2)の側頭連合野に送られた映像は、ものを認知するための処理がなされるという。
この部分が、ダメージを受けると、形がわからなくなるという。
人の顔も区別できなくなることもあるという。

こうして目から入った情報は、瞬時のうちに脳の中をかけめぐり、処理され、判断される。

 私はこうしてぼんやりと、カーテンごしに、外を見ている。何でもない行為だが、その裏で、無
数の情報処理がなされていることになる。

 こうした処理を直接頭の中で見ることはできないが、しかし想像することはできる。

 「あっ、今、後頭部に信号が送られたぞ」「二次加工されているぞ」「側頭連合野で判断されて
いるぞ」と。

 もちろんこれは私の勝手な想像によるものだが、それが結構、楽しい。

【追記】

 私たちが「そこ」に見ているものは、実際に、そこにあるものを見ているのではない。
たとえて言うなら、大脳後頭葉の視覚野というのは、モニター画面のようなもの。
つまり私たちは脳の中に映し出された、総天然色(?)の映像を見ているだけということ。

 もっとわかりやすく言えば、テレビを見ているようなもの。
まさに光と影がおりなす、幻想の世界を見ているにすぎないということになる。

 そう考えていくと、少し、不思議な気分になる。

  
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本の英語教育】byはやし浩司

●奥浜名湖・国民宿舎に一泊(はやし浩司 2012−01−09)

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今日は、浜名湖・国民宿舎に1泊。
清潔さで選ぶなら、イチオシ。

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●「眼鏡市場」(店名)

 ちょうど今、夕日が、電柱に隠れ、長い影を落としている。
その影に顔を隠しながら、私はワイフが車に戻ってくるのを待っている。
ここは、眼鏡市場(店名)の駐車場。

 最初、ワイフは眼科医院で、メガネの処方箋を書いてもらった。
それをこの店で見せ、メガネを作ってもらった。
しかしワイフの目に合わなかった。
そこで再度、眼科医院で視力測定をし、処方箋を書いてもらった。
処方箋には、誤りはなかった。
店のほうで、何かのミスをしたらしい。
それを説明すると、店は、「すぐ作り直します」と。

 こういう素直さが、うれしい。
またそれがあるから、関係がつづく。
眼鏡市場は、「サービス」がよい。
安心してメガネを買うことができる。

そのメガネが、今日、できてきた。
家を出るとき、そういう連絡が、電話であった。
それで立ち寄った。

で、今、ワイフは、店の中で、最後の調整をしているはず。
私は、こうしてワイフを待っている。
時は、2012年01月09日、16時03分。
ふと、犬のハナのことを思った。

●ハナ

 ハナが、今日、玄関の階段を登るとき、足を踏み外し、よろけた。
うしろ足が、体についてこないといったふうだった。

 もう、目は、ほとんど見えない。
今朝も牛乳を温め、そばに置いてやった。
が、それも飲まなかった。

 昼になって、牛肉を炒め、その上にバターをかけてやった。
いつもなら匂いだけで、小屋から飛び出てきた。
が、今日は体を丸めたままだった。

 ワイフに「毛布はないか?」と言うと、ワイフが、毛布をもってきてくれた。
その毛布と、ハナのタオルケットを二枚重ね、ハナの体にかぶせた。
しっぽが、小屋の壁を叩く音がした。
そのとき、ジンと目頭が熱くなり、涙が数滴こぼれた。

 「ハナ、暖かくなったら、また海へ行こうな」と。

 若いころ、ハナは、中田島の砂丘へ連れていくと、数秒も間をおかず、走り回っていた。
カラスを追いかけた。
そんな思い出が、つぎつぎと浮かんでは消えた。

私「最期が近いみたい……」
ワ「……」と。

 夕日を見ていたら、また涙が数滴、私の頬を流れた。

●国民宿舎

 これから近くの国民宿舎に向かう。
先ほど問い合わせたら、部屋が空いているとのこと。
「奥浜名湖・国民宿舎」。
1泊9000円(1名)弱で、泊まれる。
 
 湯質は、一応、「温泉」。
薬剤を混ぜ、下呂温泉のそれと同じにしてあるとのこと(宿の案内)。

 また名前は「国民宿舎」だが、現在は浜松市に移管され、民間のY社が管理、運営していると
いう。
仲居さんが、そう話してくれた。

●教材作り

 こうして書いていると、一日中、私は遊んでいるように見えるかもしれない。
が、事実は、逆。
私は一日中、働いている。
家を出るまで、今週からの教材作りをしていた。
それに2時間ほど、かかった。

 よく誤解されるが、プリント学習ほど、楽なものはない。
プリントをコピーし、それを生徒にさせる。
あとは、丸をつけるだけ。
コピーのもととなる教材は、近くの書店で買ってくればよい。
自前で、……大手のチェーン塾は別として、自前で教材を作っている塾は、ほとんどない。

 一方、私のやり方は、形としての証拠が残らない。
私は無数の市販教材を手がけてきたが、教室で使う教材は、すべて手作り。
親や子どもたちに、自分の作った市販教材を買わせたことは、一度もない。
教室で、子どもたちとワイワイ言いあいながら、レッスンを進める。

が、プリント学習のほうが、親たちには受けがよい。
証拠が残る。
一方、私のやり方は、親たちには受けがよくない。
証拠が残らない。

(多くの親たちは、プリント学習のような学習を、「勉強」と思い込んでいる。
悪しき受験教育の弊害である。)

よく「何をしていますか」と聞かれる。
そこで私は、公開教室という形で、YOUTUBE上で、教室のレッスン風景を公開している。
百聞は一見に如(し)かず。
親たちに、直接見てもらうのが、いちばんよい。
が、これが思わぬ反響を呼び始めている。

●3500本!

 最初は、台湾から。
つづいて中国から。
そのあとは、アメリカ、フランス、カナダ、それにオーストラリア……。
今では全世界から。
世界中の人たちから、令状が届くようになった。
「日本語の勉強にいい」と、日本語を勉強している学生からのコメントも、よく届く。
現在では、国内でのアクセス数と、海外からのアクセス数が、ほぼ同じ。
1日のアクセス数も、1000件前後で推移している。

 もちろん子どもたちの学習教材として利用している親も、多い。
UPした動画は、3500本を超えた。
たいへんな数である。
「そのうちギネスブックに……」とワイフは言う。
が、私にはそういう野心はない。
またほかの動画とちがい、ことBW公開教室に関しては、否定的なコメントは、まったく、ない。

 ただ残念なのは、YOUTUBEでは、教室の雰囲気が伝わらないこと。
私の教室の親たちも、そう言っている。
実際に見る、私の教室は、子どもたちの熱気でムンムンとしている。
迫力が、ちがう。
その雰囲気が、動画では、伝わらない。
YOUTUBEで見る私の教室は、おとなしく、やさしい。

●NxK

 幼児がもつ潜在的な能力には、ものすごいものがある。
私は40年以上、幼児に接している。
その結論が、これ。
「ものすごいものがある」。

 NxKの幼児向け番組を見ていると、よく指導員が幼児の前で踊ったりしている。
「ハ〜イ、お手々を、ブ〜ラ、ブラ」と。

私はいまだに、あんな番組が、あること自体、信じられない。
何の役に立つのかさえ、よくわからない。
運動にはなるのだろうが、幼児の生の表情が伝わってこない。
ときどき、こう思う。
「あんな家畜にもしないような訓練を、よくやっているな」と。

 この日本では、ああいうのが、幼児教育ということになっている。
また幼児を指導するというのは、そういうものと思い込んでいる。
が、誤解。
誤解というより、これは偏見。
やるなら、どこかの老人ホームでやればよい。
そのほうが、よほど役に立つ。
喜ばれる。

●BW公開教室

 今週は、通常のレッスンとは別に、幼児(年長児)に、「平均」を教えてみる。
「そんなこと、教えられるか?」と疑問をもつ人は、一度、YOUTUBEを見てほしい。
私はもっと、すごいことをしている!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から「BW公開教室」へ。

 が、率直に言おう。
私はもう、この日本など、相手にしていない。
相手にしていないというか、期待していない。
どうでもよい。
この日本には、私のような教育を認める、土壌そのものがない。
その前に、私のような人間を認める、包容力そのものがない。

保守的で固定的。
権威主義的で排他的。

10年どころか、100年一律の教育をし、それが教育と思い込んでいる。
創意も工夫もない。
おもしろくない。
つまらない。
が、私から見ると、バカみたい。
そんなバカみたいな教育を、いまだにつづけている。

 だから日本など、だれにも相手にされない。
日本の教育など、だれにも相手にされない。

(そう言えば、先日、アメリカのある小学校の校長も、そう言っていたぞ。
「日本の教育を視察してきたが、学ぶべきものは、何もなかった」と。
「みやげにもらった、こいのぼりだけが、役にたった」と。)

 だから最近は、こう思う。
韓国、中国、東南アジアの人たちが、私の教育法をまねてくれればよい、と。
実際、韓国からのアクセス数が、ダントツに多い。
そのうち韓国から、私の教育法が、逆輸入される。
私は今、それを楽しみにしている。

●パソコン

 ……というか、以前にも、同じような思いをしたことがある。
パソコンが世に出始めたころのこと。
小中学校でも、パソコン教育をと、みなが言い出した。
それに応じて、時の通産省も動き出した。
が、それに待ったをかけたのが、ほかならぬ時の文部省だった。
「教員免許をもたない者を、教壇に立たせるわけにはいかない」と。
さらにこうも言い出した。

 「コンピューター科を、教育学部で作るのに、20年かかる」と。
つまり教授を育てるまでに、20年は、かかる、と。

20年!

 教員がいなかったら、工学部から学生を連れてくればよい。
どうしてそういうことが、この日本ではできないのか。

 その結果、日本の電子産業がどうなったかは、みなさんご存知のとおり。
失われた10年が、20年になった。
教育の世界でも、20年、失われた。

 そういう歴史を私は目の当たりに見てきたから、こう言う。
「日本なんか、アテにしていない」と。

●英語教育

 小学校での英語教育については、私は先駆的な仕事をさせてもらった。
私がイチから企画した、小学生向きの英語教育教材があった。
『ハロー・ワールド』(G社)という名前の雑誌だった。

 それがいか先駆的であったかは、当時、毎月27〜8万部も売れたことが証明している。
(毎月、27〜8万部だぞ!)
そのあとを追いかけるように、小学校の英語教育がつづいた。
「そんなバカな」と思うのは、ちょっと待ってほしい。

 その雑誌に、そのとき名前を連ねた学者たち(=どこかの大学の教授たち)が、そのあと、英
語教育の中心的研究者として、活躍した。
大きな役割を果たした※。
形の上では、そうした学者が、先駆的にその雑誌を発行したことになっている。
が、それはウソ。
ウソということは、私や当時の雑誌の編集者たちが、いちばんよく知っている。
ついでに、その雑誌がどういう経緯を経て発刊されたか、そのプロセスを書いておく。
今の時代を生きる証言者として、後世に、記録を残しておく。

(注※…理科系の世界では、論文数と引用数によって、その学者の評価が決まる。
文科系の世界では、書籍の出版点数や、雑誌への寄稿数で、その学者の評価が決まる。)

●『ハロー・ワールド』(G社)

 最初に企画の話をしてきたのは、学習編集部に籍を置いていた、O氏だった。
ハンサムで都会的な人だった。
私と同じ年齢ということもあり、呼吸も合った。
それまでにもいくつかの企画を手伝わせてもらった。
世界初のバーコードブック、『TOM』もそのひとつ。

で、伊豆の伊東に、米若荘※という旅館があった。
「米若」だったかもしれない。
JR伊東駅から、歩いて5〜10分ほどの距離だった。
その旅館の温泉につかっているとき、O氏がこう切り出した。
「今度ね、英語の雑誌を作ろうと思っているのですが、協力してもらえますか」と。

 最初に話を持ち出したのは、O氏である。
「じゃあ、企画を立ててみます」と。

 ……ということで、私は1〜2か月の間、その企画に没頭した。
企画と試作テープを制作した。
テープは、カラオケセットを利用した。
が、その企画が、思わぬハプニングで、「社長会」を通ってしまった。
社長の前で披露する企画会議を、G社内部では、「社長会」とか、「社長会義」と呼んでいた。
内部では「御前会議」と呼んでいた。
正確な名称は、忘れた。

 その企画会で、O氏と、その上司であるS氏が、別の企画の説明をしていた。
それに対して、社長が、「もっとおもしろい企画はないかね?」と。
そこでO氏が、慌てて出したのが、私の企画と試作中の録音テープだった。

 この話はG社にとっても、またO氏、その上司であるS氏にとっても、彼らの名誉がからむ。
だから聞いたまま、また記憶を正確にたどりながら、ここに書く。

 が、その企画を見て、社長がこう叫んだという。
「それで行こう」と。

 こうして『ハロー・ワールド』という雑誌が生まれた。

(注※…現在、この旅館はなく、その跡地にはスーパーが建っているとのこと。
先日、伊東市で講演させてもらったとき、案内役の先生が、そう話してくれた。)

●商標登録

 が、当初は、『ピーカーブー』という名前で、私は企画していた。
「もういいかい?」「もういいよ」という、かくれんぼの合言葉である。
英語のかわいい歌もあった。
私はそれを雑誌のテーマ・ソングに考えていた。

 が、O氏がある日、興奮して、こんな電話をかけてきた。
「林さん、『ハロー・ワールド』という名前が使えますよ」と。
話を聞くと、こう教えてくれた。

 当時、NHKに『ハロー・ワールド』という人気番組があった。
その名前が、商標登録をしていなかった。
それで「その名前を、そのまま使えます」と。

 G社は、NHKの人気番組の名前を、ちゃっかりと横取りした。
(この世界ではよくあることで、これは悪いことでも何でもない。
しっかりと商標登録をしていなかった、NHK側のミスということになる。)

●見本号

 こうして見本、第1号が生まれた。

 タレントとして、当時まったく無名だった、西田ひかるさんを起用した。
「起用した」というより、当初、K舞さんというタレントに頼むつもりだった。
しかし予算がなかった。
プロダクション側は、月20万円のギャラを要求してきた。
そこでO氏が、同じ横浜市内にあるアメリカン・ハイスクールを訪問し、西田ひかるさんを見つ
けてきた。
当時、高校1年生。
ちょうど2年生になるときのことだった。
1号に載っている西田ひかるさんが、おかっぱ頭なのは、そんな理由による。
(O氏が見つけてきた。
「歌が歌えますか?」と聞くと、西田ひかるさんは、YMCAを歌ってくれたという。)

 ともかくも、こうして見本第1号が生まれた。

●失望

 が、第1号から、私は大きく失望した。
O氏がどういうルートで、どのようにして連れてきたかは知らない。
しかし第1号のトップを飾ったのは、私の知らない2人の人物であった。
うち1人が、後に小学校での英語教育の立役者になる。

 O氏の実力については、私はよく知っている。
学習編集部というG社の看板編集部(当時)の中でも、ひときわ輝いていた。
トップクラスの編集者であった。
事実、あの雑記帳のような企画書が、とびぬけて斬新な雑誌になったのは、O氏の力によるも
のである。
センスそのものが、ちがった。
あるとき、「この人は魔法使いのようだ」と思ったことがある。

また私の名前が当初からはずされたのも、O氏としても、やむをえなかったのかもしれない。
それがG社の体質だった。

 たとえば私は実用図書部という編集部で、「東洋医学基礎編」「東洋医学経穴編」という書籍
を出してもらったことがある。
そのときも、100%、私の執筆によるものであるにもかかわらず、どこかの偉い先生が、著者
として本を飾った。
「君の名前では、本は売れないから」が、その理由だった。
私は「企画・構成、はやし浩司」。
私はそんな肩書があることさえも知らなかった。

 が、やる気を失ったのは事実。
6号(=半年)を過ぎるころから、私は『ハロー・ワールド』から、手を引き始めた。

●編集方針

 編集方針がちがったということもある。
号を重ねるごとに、どこかの偉い教授たちが、その雑誌に群がってきた。
そして「シャワー方式」(=わかってもわからなくても、英語を頭からお湯をかぶせるように聞か
せる)とか、「スパイラル方式」とか、そんな方式が採用された。
「スパイラル方式」というのについては、いまだにそれがどんなものであったか、私はよくわから
ない。
たぶん編集部の方で、勝手に考えた方式ではなかったか(?)。

 で、6〜7号ごろになったとき、はじめてO氏に、私は異議を唱えた。

 「外国映画でも、字幕もなく、ただその言葉を聞かされたら、イライラしますよ」と。
シャワー方式を批判した。
O氏は、あれこれ説明してくれたが、つぎの私の一言が、O氏を怒らせた。
「実際、教えたことがない人が英語雑誌を作るなんて、無茶だ」と。

 私がその前に、1年かかっても、A〜Zの文字が書けない6年生は、いくらでもいますと言っ
た。
それに対して、O氏が、「そんなバカな」というような顔をしてみせた。
「無茶だ」と言ったのは、そのあとのことだった。
O氏は、くるりと背を向けると、こう言った。
「林さん、それを言っちゃ、おしまいだよ」と。

 それで私と『ハロー・ワールド』との縁は切れた。

 そうそうこんな会話をしたこともある。
私「1号の雑誌の中だけで、中1の教科書に出てくるほどの単語が出てきます」
O「では、林さんは、どんな雑誌がいいと思いますか」
私「1冊で、YES、NOだけを教える。それでじゅうぶんです」と。

 が、O氏は、こう言った。
「それでは、お金を取れません」と。

●英語教育

 現在、小学校における映画教育が、デッドロックに乗り上げている。
外人の講師が来て、それらしいことを教える。
が、それだけ。
よく言えば、ゲーム会。
悪く言えば、雑談会。
まったく軌道に乗らない。
外人講師も集まらない。

 が、そうした経験を、すでに私は、42年前にしている。
この浜松市で、幼児や小学生を相手に英語教室を開いたのは、事実、私が最初である。
大人向けの英語教室は、1軒だけあった。
紺屋町の五社神社を降りた坂の、その途中にあった。
1971年の終わりごろのことである。

 つまり『ハロー・ワールド』が生まれる前、すでに20年近いキャリアがあった。
その私が、あえて再び言う。

「小学6年生でも、A〜Zのアルファベットを書けない子どもはいくらでもいる。
1年間教えても、書けない子どもは、書けない」と。

 この日本では、実際に子どもに英語を教えたことがない人が、指導者として上にたつ。
……立った。
だからおもしろくない。
役に立たない。
子どもたちの心をとらえることはできない。

 そんな教育を押しつけられた現場の先生たちこそ、えらい迷惑。
英語だけではない。
数学、国語、社会、理科にしても、そうだ。
総合的な学習にしても、そうだ。
どれも後に学者になる子どもには、すぐれた体系をもっている。
しかしいったい、何%の子どもが、その学者になるというのか。

 とくに英語は、暗記にはじまって、暗記に終わる。
文法を教える方法もあるが、それについてはまた別の機会に書く。
ともかくも1年も教えると、子どもの進歩が、一度停滞する。
それからは(覚える量)と(忘れる量)が均衡する。
進歩が見られなくなる。

●デッド・ロック

が、それが「デッドロック」ではない。
教育としての「道筋」が見えてこない。
それが「デッドロック」。

 なお私はその『ハロー・ワールド』を最後に、教材作りの世界から、足を洗った。

 ……といっても、O氏との関係が切れたわけではない。
そのあとも、会うたびに、こんな会話をした。

「あの夜、英語雑誌の話をしなかったら、西田ひかるという女優は、この日本にはいなかったで
すね」と。

 そのころ、西田ひかるさんは、押しも押されもせぬ日本を代表する女優に成長していた。

 なおその『ハロー・ワールド』は、5、6年を経て、廃刊になった。
そのころ私とO氏の関係も、プツリと切れた。

●奥浜名湖・国民宿舎

 奥浜名湖・国民宿舎は、清潔度(清潔感)では、この浜松でも星5つに評価してよい。
設備も真新しい。
ただ国民宿舎ということで、料金は安いが、サービス用品は最小限のものしかない。
大浴場にもあるのは、カミソリの自動販売機だけ。
料理は、それなりのもの。
同じ程度の料金で泊まれる「浜名湖かんざんじ荘」の料理とは、比較にならないほど、さみし
い。
量も少ない。

 清潔感で選ぶなら、ここ「奥浜名湖・国民宿舎」。
眺望と料理で選ぶなら、「浜名湖かんざんじ荘」ということになる。

 あとは料金しだい。

●夕食

 客は私たちを含め、10人前後しかいなかった。
静かな夕食だった。

●DVD『サイレント・ワールド・2012』

 ワイフは今、DVD『サイレント・ワールド・2012』を見ている。
私も見ている。
が、これがどうしようもないほどの駄作。
「新作」ということで借りてきたが、駄作は駄作。
演技も、ヘタクソ。
緊張感を、もてあそんでいるだけ。
主役の男は、科学者というより、どこか間の抜けたコメディアン風。
そういう男が、超一級の気象学者を演ずるから、話がおかしくなる。
妻の女性は、どう見ても、娼婦?
清潔感がまったくない。
「日本の映画でも、ここまで無理な役付けはしないのに」と、私は思った。

 ……日本の映画なら、こんなことを書いたら、即、抗議が飛んでくる。
しかしこれはアメリカ映画。
ボロクソに叩いても、だれも文句を言ってこない。

 まだがまんできるが、私のがまんも、あと10分はつづかないはず。
ころあいを見て、もう一度、温泉に入ってくる。
そのあとすぐ眠るつもり。
今日は、昼寝をしていない。
目が、しょぼしょぼする。

 ワイフがこう言った。
「よくまあこんな駄作を、あの店(DVDショップ)は、新作として人に貸すわね」と。
ワイフも、怒りだした。

●日本映画

 日本映画の悪いところ。
演技が演技、演技しすぎ。
「これが演技です」というような演技をする。
不自然。
そのため感情移入する前に、観客のほうがスクリーンから、はじき飛ばされてしまう。

 少し前、『山本五十六』を見た。
そのときも、そうだった。
善人は、さも善人です……というような演技をする。
悪人は、さも悪人です……というような演技をする。
山本五十六を演じた役所Kはともかくも、脇役を演じた新聞記者がへたくそだった。
感情丸出し。
丸出しというより、ムキ出し。
つまり力(りき)み過ぎ。

その(丸出し)の部分が、へたくそだった。

 演技は、自然に!
 
●オーストラリアの物価

 たった今、オーストラリアの友人からメールが届いた。
1つは、K君(メルボルン在住)からのもの。
「娘の結婚式に、来てくれるか」と。

もう1つは、B君(南オーストラリア州)からのもの。
オーストラリア経済の現状を、簡単に説明してくれた。
自動販売機で、ペットボトル1本が、3ドル50セントもしたことに、私は驚いた。
それについて書いた。
その返事。

「……Hi Hiroshi,
やあ、ヒロシ。
Exchange rates are bouncing around a bit and the $A seems to be especially vulnerable to 
market sentiment.
為替相場がかなり高騰している。
オーストラリアドルは、市場の感情で傷つきやすくなっている。

Recently the $A has been greater than US$1.00 because we export lots of high priced 
minerals.
最近はオーストラリアドルのほうが、USドルより高くなっているが、これは高価格な鉱物のせい
である。

This is great for us Aussies travelling overseas or importing stuff from overseas but not for 
our tourism industry or exporters of things other than minerals.
これは外国を旅行するオーストラリア人や、輸入業者にとっては、とてもよいことだが、国内の
旅行会社や、鉱物以外の輸出業者にとっては、よくないことだ。

So to tourists from overseas Australia is expensive. 
外国からの観光客にとっては、オーストラリアの物価は高い。

Also to Australians who don't get their income from mineral exports Australia is becoming 
expensive.
鉱物の輸出から収入を得ていないオーストラリア人にとっては、オーストラリアの物価は高くな
りつつある。

This is the so-called "two speed economy".
これはいわゆる「2スピード経済」というものだ。

The States which export the most minerals, West Australia & Queensland are doing the best 
economically.
西オーストラリア州やクィーンズランド州のような、鉱物のほとんど輸出する州は、経済的に、
今、最高に潤っている。

Things like soft drink vary greatly in price depending how you buy them.
ソフトドリンクのようなものは、どのように買うかで、値段がちがう。

A 300ml can of coke can be 70 cents if you buy it in the supermarket on special in a pack 
of 20 at room temperature.
300ミリリットル入りのコーラは、冷やしてないものであれば、スーパーマーケットでは、20本
売りで、1本、70セントで買える。

A cold can of coke from a vending machine could be $2.50 or $3.
自動販売機で買えば、2ドル50セントから3ドルだ。

It is a funny world.
おかしな世界だね。
Cheers,
元気で。
B』

●結婚式

 さっそく旅行会社を調べる。
パッケージ旅行なら、1人、15万円前後で往復できる。
5日間のホテル代、込み。
それを別の友人に知らせたら、オーストラリア旅行を計画してくれた。

Possible Itinerary(可能な計画)
All travel by vline(ビクトリア線での旅行)
melb-echuca 1/04 train 09:35-12:57 3p+ $68.70(メルボルン→エチューカ)
echuca-swanhill 3/04 bus 07:35-10:12 3p= $45.90(エチューカ→スォンヒル)
swanhill-bendigo 4/04 train 07:11-09:21 3p= $59.10(スォンヒル→ベンディゴ)
bendigo-castlemaine 8/04 train 09:26-09:50 3p= $11.70(ベンディゴ→キャッスルメイン)
Castlemaine-maldon-castlemaine 8/04 Steamtrain 11:45-12:30 14:30-15:15 3p= $135(蒸気
列車の旅)
Castlemain-melbourne 8/04 train 17:00-18:31 3p= $38.70(キャッスルメイン→メルボルン)
total fares = $359.10 for 3 people(3人分で、列車料金、359ドル=約2万4000円)

 ビクトリア州の西部を、ぐるりと回るコース。
スォンヒルもベンディゴも、学生時代に行ったことがある。
何の変哲もない田舎町だが、ところどころに、開拓時代の古い街並みが残っている。
西部劇映画に出てくるような、街並みを想像すればよい。
基本的には、当時のオーストラリアは、当時のアメリカと同じ。
ただ家畜だけは、ちがった。
アメリカは「牛」。
オーストラリアは「羊」。

 友人の娘の結婚式に出た後、ビクトリア州をぐるりと一周するのも、悪くない。
ワイフはすでに、その気でいる。

●就寝

 時刻は今、午後9時52分。
もうすぐ10時。
疲れた。

 温泉の中では、だれもいなかったので、ひとり、歌を歌っていた。
気分は、最高。
では、おやすみ!

●インバーター・エアコン?

 朝、4時に目が覚めた。
寒かった。
エアコンをいじってみたが、温風が出ない。
???

 朝食のときフロントにいた男性にそれを告げると、こう言った。
「いきなり温度をあげると、インバーター・エアコンだから、停止してしまいます」と。

 インバーター・エアコン?
知らなかった……。

 この世の中、(当然のことだが……)、私の知らないことが多すぎる!

●追記

 私自身が、ジジ臭くなったのか?
オーストラリアの旅行計画を見ながら、「体力的に無理だろうな」と。

 日本人とオーストラリア人とでは、距離に対する感覚が、まったくちがう。
彼らは300〜400キロの距離なら、ドライブ範囲。
が、日本で400キロというと、浜松市から福島市までの距離をいう。

 オーストラリア大陸は、日本の約20倍。
友人の旅行計画によれば、日本列島を、北海道から九州まで、ぐるりと1周するほど、ある。
そうでなくても、オーストラリアは遠い。
昨年も、ワイフはオーストラリアへ着くやいなや、友人の家のベッドの上で寝てしまった。

 最近の私たちは、観光地には、ほとんど興味がない。
(このあたりが、ジジ臭い。)
とぼとぼと、その旅館の周辺を歩く。
旅館に閉じこもったままということのほうが、多い。

 もしメルボルンに5日間滞在するとしたら、私はジーロンの町へ行きたい。
そこからバスに乗って、ローンまで。
ローンのホテル(バー)で、2泊。
何もしないで、そのあたりを散歩して過ごす。
(このあたりが、ジジ臭い。)

●ハナ(2)

 家に帰ると、ハナは、玄関のところで、日向(ひなた)ぼっこをしていた。
そばに寄っても、そのままだった。
「だいじょうぶか?」と声をかけても、そのままだった。

 しばらく私はハナの背を、さすってやった。
すっかり白くなった目が、さらに奥へ落ち込んだように見えた。
その目が、さみしそうに、私を見あげた。

 私は台所で、ハナの好物を、料理した。
牛肉をバターで炒め、それに少しだけミルクをかけた。
それをハナの頭の前に置いた。

 ……どれくらい時間がたっただろうか。
私はハナが、その料理を食べ出すまで、いっしょにそばにいた。
風はなかった。
静かだった。
それを見て、また私は同じことを言った。

「今度、また海へ行こうな」と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 奥浜名湖国民宿舎 ハローワールド ハロー・ワールド G社 はやし浩司 
Hello World 英語雑誌)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教育と政治(Political Apathy itself is to be ashamed.)

++++++++++++++

教育と政治は分離する。
当然のことである。
私も、子どもたち(生徒たち)と
接するときは、政治の話は、
いっさい、しない。
してはならない。

しかし教師であるなら、当然、
政治に関心をもつべきである。
それが教育の場でないなら、
政治の話をして、当然。
意見を述べて、当然。

子どもの未来を考えていくと、
その向こうに(政治)がある。
政治抜きに、子どもの未来を
語ることはできない。

が、この日本には、おかしな
偏見が蔓延している。
高校生あたりに「6か国協議を
どう思う?」と問いかけても、
即座に、「ダサイ!」とはねのけられて
しまう。

あるいは政治的に無関心である
ことが、(常識的な人間の条件?)と
思われている。

しかしこんなバカげた民主主義国家
が、どこにある?
税金の使われ方すら知らない国民が、
どこにいる?

私が12年前に書いた原稿を、
もう一度読んでみてほしい。

++++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Political Apathy)」というのは、それだけで軽蔑の対象になる。
非難されることも多い。
だから「あなたは無関心な人だ」と言われ
たりすると、その人はそれをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈
に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。
だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。
関心もない。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。
ほとんどの子どもは、「セ
イジ……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。
(実際、どの部分がど
のようにダサイのか、私にはよく理解できないが……。
ダサイ」という意味すら、よく理
解できない。)

● 政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
● 社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
● あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。
今のこの日本が、
その結果であるといってもよい。
これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

● 文部省からの三通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、三通の文部省通達である(たった三通!)。
文部省が19
60年に出した「文部次官通達」(六月二一日)、「高校指導要領改定」(一〇月一五日)、それ
に「初等中等局長通達」(一二月二四日)。

 この三通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。
さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、
禁止された。
当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなり
の理由があったが、それから40年。
日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」
に改造された。その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。
どんな生活であるにせよ、一度その生活に
入ると、どんな人でも保守層に回る。
そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、そ
れである。構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう10年以上になるが、結局は、ほとん
ど何も改革されていない。
このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きく
なる。
いや、すでに、日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。
あとはいつ爆発し、崩壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった三通の、次官、局長クラスの通達で、日本の
教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。
そしてその恐ろしさを、どうか理解してほしい。日本の教育は、(日本人の心も)、こういう形で、
中央官僚の思うが
ままにあやつられている。

+++++++++++++

もちろん、極右であることも、極左であることも、
望ましいことではない。(否定はしないが……。)

ものごとは、常識を基点にして考える。
あるいは常識の上に常識を重ねながら、考える。
私たちが何よりも警戒しなければならないのは、
「極端化」である。
「先鋭化」ともいう。
とくに政治の世界では、警戒した方がよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教育の結果

 つまり私たち日本人が、こうまでおとなしくなってしまったのは、「教育」が原因ということ。
ここに「教育」のもつ、「力」というか、「恐ろしさ」がある。
今のあなた自身を振り返ってみればよい。
あなたはなぜに、そうまで従順なのか。
従順であるのが悪いというのではない。
しかし「牙(きば)」を抜かれてしまった。
あなた自身がつまり、「教育」の結果ということ。

 もっとも今は、デモをして声を張り上げるような時代ではない。
(ときとばあいによっては、大切だが……。)
今は、こうしてネットを通して、意見を発表する。
世論を動かしていく。
ツイッター(Twitter)で、国が動く時代である。

『時事用語』(成美堂)の第1ページを読んで、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 文部省通達 たった3通の通達 牙を抜かれた日本人 デモ禁止 教
育と政治)
2012/01/12改


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●気負いは、ほどほどに(はやし浩司 2012−01−13)

●5時起き

 今朝は、5時起き。
それまで1時間ほど、布団の中でもぞもぞしていた。
が、こういうときは、思い切って起きた方がよい。
時間を無駄にしてはいけない。

●日常

 詳しく書いても、意味はない。
それは、どうでもよい。
実は、私は先日、あやうく死にかけた。
九死に一生……というより、それより危なかった。

 が、それはそれ。
そのあとのこと。
日常が、いつもと変わらぬ日常であることに驚いた。
と、同時に知った。
「私が死んでも、何も変わらず、世界は動きつづける」と。

●ワイフ

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私も、父が死んだとき、そう思った」と。

 ワイフは、自分の父親が死ぬとは思っていなかったという。
が、その父親が他界した。
そのときのこと。
「父が死んでも、何も変わらなかった。
そのことが、不思議でならなかった」と。

●もうけもの

 私が死んでも、またあなたが死んでも、この世界は、何も変わらない。
晴れた日であっても、雨の日であっても、そのまま。
人の流れも、車の流れも、そのまま。
「今」は、いつまでも永遠につづく。

 が、ひとつだけ、心境に変化が生じた。
その事件のあと、こんなふうに思うようになった。
そのつど、「もうけもの」と。
それがアワのように、心の中で浮かんでは、はじける。
つまりその日以来、こうして生きていること自体が、「もうけもの」と。

●人生、50年

 そう言えば、学生時代のS君も、そう言っていた。
胃ガンで生死の境をさまよい、そのあと、無事生還。
5年たった今も、元気で生きている。

「なあ、林、昔は『人生、50年』と言ったろ。
50歳を過ぎたら、人生は、もうけものなんだよ」と。

 もうけもの……つまり、おまけ。
余録。
そう思って生きれば、心に余裕ができる。
損得を乗り越えて、生きることができる。

●64歳

 ……ということでなくても、最近、よく、こう思う。
私も64歳になった。
江戸時代なら、もうとっくの昔に死んでいてもおかしくない年齢※。
その私が、まだこうして生きている。
しかも生涯、病院のベッドの上で寝たことがない。
入院すら、したことがない。
本当に、ありがたいこと、と。

 そう思うと、身近のささいな問題が、どうでもよくなってしまう。

(注※……江戸時代の平均寿命は45歳前後だったと言われている。
ただし当時は、6歳前後までに、約30%の子どもが亡くなったという。
数字は記憶によるものなので、不正確。)

●希望

 要するに生きる原点を、どこに置くかということ。
ないものをねだり、持てる人をねたんでも、しかたない。
できなかったことを悔やみ、人生の短いことをはかなんでも、これまたしかたない。
今、ここにいる。
生きている。
青い空が見える。
音が聞こえる。
それを楽しみ、それを喜ぶ。

 そこに原点を置けば、生きていること自体が希望。
それに気づく。
言い換えると、生きているかぎり、人にはみな、希望がある。

●おはようございます

 さて、こうして、その「もうけものの1日」が、今日も始まった。
何ができるか、何があるか、それはわからない。
ともかくも、今日1日、懸命に生きる。 

 期待のしすぎは禁物。
気負いも、そこそこに。
ヌカ喜びも、取り越し苦労もしない。
だからといって、時間を無駄にしてはいけない。
そのあとのことは、そのあとのこと。
結果は、かならず、ついてくる!

 2012年01月13日(金曜日)、午前6時

 みなさん、おはようございます。

(補記)「生きる哲学」

●一貫性

 最近、強く感ずるのが、このこと。
つまり「哲学のない人とつきあうのは、むずかしい」。

 哲学をもっている人には、それなりの一貫性がある。
が、それがない人には、その一貫性がない。
欲望に溺れるまま、そのつど変化する。
表面(おもてづら)に、騙(だま)されてはいけない。
処世術というか、そういう人にかぎって、身を飾るのがうまい。
言葉や表情、行動で身を飾る。
男だったら、地位や肩書きで、飾る。
が、よくよく観察してみると、一貫性がない。

●ある男

 わかりやすく言えば、(つかみどころ)。
たとえば身近に、平気で女性を騙して遊んでいる男がいる。
年齢は30歳くらいか。
下は中学生から、上は、40代のおばちゃんまで。
結婚はしていないが、街で見かけるたびに、ちがった女性と歩いている。

 そういう男だが、仕事だけは、ちゃんとこなしている。
それなりの大企業に勤め、それなりの仕事をしている。
実にまじめそうな顔をしている。

「女」のためだったら、正月でも、その家にあがりこんで、掃除の手伝いをしたりしている。
が、どうも一貫性がない。
知人に話を聞くと、給料のほか、生活費の大半を、実家の親に出してもらっているという。
つまりそのお金で、遊びまくっている。

 そういう話を聞いているから、どうも信用できない。
……というか、ウソばかり並べる。
口がうまい。

●哲学

 そんな男のことを、論じても、意味がない。
愚劣な男は、どこまでも愚劣。
いくら立派な学歴と肩書きをもっていても、愚劣は愚劣。
問題は、なぜ、そういう男が生まれるかといういこと。

 その男の親は、会うたびに、「いい大学を出ました」「いいところに就職できました」と喜んでい
る。
今は、「いい嫁が早く見つかればいい」と。

 端的に言えば、その男には、一本のスジの通った哲学がない。
「私はこうなんだ」という、スジがない。
というか、それ以前の問題として、それを考えない。
水面に浮かぶ浮き草のように、我が身を流れに任せているだけ。
考えてみれば、これも悪しき受験競争に弊害ということになる。

 受験勉強が悪いというのではない。
それだけでは、片手落ち。
半人前。
さらに悪いことに、現代の若い人たちは、先人からものを学ぶということをしない。
「老人の言うことには、価値がない」と。
が、これでは浮き草になって、当然。
いつまでたっても、浮き草止まり。

●宗教

 私自身はそういう経験を、直接したことがない。
ないが、昔からこう言う。
「欧米では、宗教をもっていない人は、信用されない」と。

 たしかにそれはそうで、宗教をもっている人には、それなりの一貫性がある。
その一貫性が、相手、つまり私たちに、ある種の安心感をもたらす。
「この人は、ウソをつかない」と思うだけでも、安心して話を聞くことができる。

が、この私には宗教がない。
いろいろ探してみたが、どれも私には合わない。
仏教もキリスト教も、どうも肌になじまない。
宗教団体となると、さらにそうで、接しただけで、拒絶反応すら覚えてしまう。
だから「哲学」ということになる。

●私のワイフ

 その点、私のワイフの生き方は、参考になる。
ガチガチの石頭で、がんこ。
融通はきかないし、冗談もめったに言わない。
クソまじめすぎるほど、クソまじめ。
ときどきワイフのことを、「石部金子」(石部金吉をもじる)と呼んでいる。
まったく面白(おもしろ)みのない女性だが、いつも安心してつきあうことができる。

 つまりそれがワイフの、「スジ」ということになる。
その「スジ」に、私は身を寄せることができる。
たがいの信頼関係も、そこから生まれる。

 で、今日のテーマ。
「哲学」。
「生きる哲学」。
それを考えながら、今日1日を過ごしてみたい。
2012/01/13記

(補記の補記)

●小沢一郎

 本物の詐欺師は、自分で相手を騙しているという意識がないそうだ。
だから平気で、人を騙すことができる。

小沢一郎という人が、どういう人なのか、本当のところは、私も知らない。
しかしあの人は、ものすごい人と思う。
この場に及んでも、まだこう言っている。

「私は天下国家のことしか、考えていない。(金の流れなど、感知しない)」と。
もし本当にそうなら、彼こそ、本物の詐欺師。
天下の詐欺師。
まさに土建政治家。

 今朝の新聞(中日新聞)によれば、4億円という大金を金庫から出し、紙で包んだのは、小沢
一郎自身だったという。
重さ、40キロ。
にもかかわらず、「(金の流れなど、感知しない)」と。

見苦しいというか、ああいう政治家しか生まれない、日本のこの土壌を情けなく思う。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【姉妹の嫉妬】(はやし浩司 2012−01−09・雑感)

●気力

++++++++++++++++++

貧乏性。
貧乏性と、昔は言った。
「何かをしていないと、落ち着かない」。
それを貧乏性と言った。

休みが1週間もつづくと、そうなる。
最初の2、3日は、あれこれと忙しい。
しかしそれを過ぎると、とたんに、貧乏性になる。

そこで何かをし始める。
ゴソゴソ……
ゴソゴソ……、と。

(コソコソではない。念のため!)

+++++++++++++++++

●モニター

 4、5年前、27インチのモニターを買った。
解像度は、1920x1200(これをAとする)。
が、しばらくすると、ワイド画面が主流になった。
解像度は、1920x1080(これをBとする)。
そこでワイド画面のモニターに買い換えた(これをCとする)。
27・5インチ。
が、どうもの足りない。
もっと大きいのが、ほしくなった。

 そこで液晶テレビをモニターに使ってみることにした。
テレビ用のモニターを購入。
32インチ。
画面がぐんと大きくなった。
「これはいい」と思ったのも、束の間。
字が粗くて使い物にならなかった。
それに明るすぎた。

 で、しばらく(B)を使っていたが、これにも問題があった。
上下幅が狭いため、サイトによっては、そのつどスクロールをしなければならない。
そこで今朝、再び(A)に、戻した。
で、今は、その(A)を使いながら、この文章を叩いている。

 で、一言。

 パソコンのモニターは、明るすぎるのはよくない。
目が疲れる。
やや薄暗いかな……という程度のものがよい。
何時間もつづけて使うときには、とくにそうだ。
その点、パソコン専用のモニターは、かなり薄暗くすることができる。
テレビ用のモニターでは、それができない。

 しばらくこのモニターを使ってみる。

●露天風呂

 自家製の露天風呂が欲しくなった。
それに湯を張り、星空をながめていたい。
……ということで、あれこれ計画を練っている。

 まず、小さなベランダを作る。
その上に、木製の浴槽を置く。
湯や水は、ホースで引けばよい。
その気になれば、半日仕事。

 友人のTさんは、自分の山荘では、浴槽に、本物のドラム缶を使っている。
それを川沿いの空地に置き、露天風呂にしている。
Tさんは、何をするにも、本格的。
「浴槽はドラム缶がいちばんいい」と。

 太陽熱温水器を使い、湯を入れる。
熱さが足りないときは、下から薪(まき)で温める。
風呂へは、下駄を履いて、入る。

ただし川のそばだから、使えるのは、春と秋だけ。
夏は虫が多く、使い物にならない。
昼間は、アブの襲撃を受ける。
冬は、寒い。
風呂から出た後が、つらい。

●オーストラリア

 ワイフがオーストラリアへ行こうと言っている。
それをオーストラリアの友人に話すと、毎日のように資料を送ってくれる。
「縁」というのは、それをいう。
人というのは、自分を望んでくれる人のそばに行きたい。
1人でも、そういう人がいると、そこへ行きたい。

 そこで計画。

 が、オーストラリアの物価は、高い。
メルボルン市内でも、ちょっとよいホテルになると、1泊1名で、4〜5万円。
最低でも2万円前後。
もちろん素泊まり料金。

 「料金が高い」というより、為替レートがおかしい。
現在、オーストラリアドルは、1ドル=80円前後で取り引きされている。
が、実際には、1ドル=40〜50円くらい(?)。
それくらいだと、日本の物価水準と同じくらいになる。
(食品価格をのぞいて……。)

 どうしようか?

●のぞき

 年賀状を見てわかったが、みな、私のHPを見ている。
「いつもHPを見ています」という人が、何人かいた。
しかし私的には、それを喜んでいいのか、悪いのか……?
本音を言えば、あまり見てほしくない。
そういう人がいると、書きにくい。
あれこれと、気を使わねばならない。

 というのも、私は、プライベートなことを書くときは、その人とわからないように書く。
たとえば身内の話を、近所の人の話にしたり、親類や知人、友人の話にしたりする。
「私の親戚に……」と書いたからといって、親戚の話とはかぎらない。
そうでないことのほうが多い。
もちろんその逆もある。

 さらに、2人〜3人の話を1つにまとめることもある。
もちろんその逆もある。

 ウソを書いているのではない。
これは私のようなもの書きにとっては、最低限守らなければならないマナーである。
その人の名誉を傷つけると、たいへんなことになる。
が、読む人が読むと、それがだれかわかってしまう。
「これはあのXさんのことだ」と。
それがこわい。

 とくに不愉快ななのは、「のぞき」。
HPをのぞいては、私の家の事情を探ろうとする。
数年前だが、こう言った男がいた。

「浩司君、君のHPだけど、この1年くらい、見てないかなア〜」と。

 が、これはウソ。
今ではフリーのサービスや、フリーのソフトを使うと、どこのだれが何回くらいアクセスしてきた
かが、1日単位でわかる。
(もちろん相手のIP番号を登録しておく必要があるが……。)
その男は、毎晩、11時前後に、私のHPをのぞいていた。

 で、私はその男にこう言ってやった。
「あなたのサーバーは、Axxxxネットでしたね」と。
その男は、一瞬ギクリとしたあと、そのまま黙ってしまった。

 私のHPは、それを必要とする人に見てほしい。
のぞき目的で見るのは、厳禁!
あとはみなさんの良識に任せる。

●露天風呂(2)

 このところ、物価が上昇している。
それが実感として、よくわかる。
先ほども、浴槽のHPをあちこちのぞいてみた。
露天風呂に使えそうな浴槽を探してみた。

 が、価格を見て、驚いた。
ヒノキで作った丸形浴槽ともなると、いちばん小型のサイズでも、40万円前後。
その上のサイズとなると、50〜70万円前後。

(露天風呂付きの温泉でも、50万円もあれば、食事付きで、40回は入浴できる。)

 「高いなア〜」と思ったところで、思考停止。
こうなったら、自分で作るしかない。
木材を買ってきて、自分で作る。
箱形のものであれば、まさに「箱」を作ればよい。

 今日にでも近くのDIYショップへ行ってみる。
あれこれ、自分で考え、自分で作っているときが、いちばん楽しい。

●モニター(2)

 やはりワイド型(16:9)のモニターのほうが、使いやすい。
……ということで、結局は、もとのモニターに戻すことにした。

 ゴソゴソ……と。
ちょうどそこへワイフがお茶を届けてくれた。
「(テレビの)モニターはどうするの?」と。

私「不要だから、あげるよ」
ワ「じゃあ、もらとくわ」と。

 意外と簡単に、もらい手が決まった。
が、階下の居間までもっていくと、そこから息子にバトンタッチ。
息子がそのままそのモニターをもって、自分の部屋に消えた。

●相談

 ……とまあ、つまらない話ばかり書いていてはいけない。
読者のみなさんに、申し訳ない。

……。

 おととい、ある女性から、こんな相談を受けた。
電話での相談だった。

(ただし最初に書いておきますが、どなたかの紹介がないかぎり、電話での相談はお断りして
います。
おとといの相談は、昨年世話になった、ある学校の校長の紹介の方からのものでした。)

 いわく、「姉妹が、仲が悪くて、悩んでいます」と。

 おおざっぱに言えば、こういう内容である。

(1)2人の姉妹(娘)が、いる。
(2)年齢は、上が28歳、下が26歳。
(3)上の娘は、ケチでためこみ屋。家業を継がせたくない。
(4)下の娘は、負けん気でやり手。家業を継がせたい。
(5)いつも喧嘩ばかりしている。
(6)一方に家を出るように言っているが、姉のほうは、一歩も譲らない。
(7)妹にボーイフレンドができた。
(8)そのボーイフレンドに、姉のほうが横恋慕。姉との結婚話まで進んでいる。
(9)現在、そのボーイフレンドを取り合って、家の中が大騒動。

 で、どうしたらいいか、と。

●姉妹

 『年齢の近い姉妹は、憎しみ相手』と。
昔からそう言う。
乳幼児期からの(わだかまり)があるから、その分だけ、根が深い。
姉妹がうまくいっているケースとなると、10に1つもない。

 が、話を聞くと、さらに深刻。

 姉が、ボーイフレンドと妹の仲を裂こうと、あれこれと告げ口をしているというのだ。
そのひとつが、妹に、中絶経験があること。
それを、姉は、ボーイフレンドに話してしまった。
それが大騒動の原因にもなった。
相談してきた女性(母親)は、こう言った。
「明日にでも事件になりそうで、恐ろしくてなりません」と。

●現在の状況

 姉は妹に向かって、「私が長女だから、家を出て行け」と。
妹は、「私が店を手伝っているから、あんたこそ、出て行け」と。
家は江戸時代からある、みやげもの屋。
その町の門前町の中でも、中心的な存在である。
敷地も広い。

現在の状況は、つぎのようらしい。

(1)たがいに口もきかない。
(2)ささいなことで、突発的に大げんかになる。
(3)夫(父親)は、「店を継いだものに、財産を譲る」と言っている。
(4)ボーイフレンド、つまり彼氏は、最近は、姉の方とデートしている。

●嫉妬

 こういう話を聞くと、乳幼児期の子育てがいかに重要かがわかってもらえると思う。
この時期の兄弟・姉妹関係が、そのままおとなになっても、尾を引く。
嫉妬がからんでいるだけに、それこそ相手を、殺す、もしくはその寸前のところまで発展する。
(実際、そういう例は少なくない。)

 原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

嫉妬について書いた原稿です。
中日新聞発表済み。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、
その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。
「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。
犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。
また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。
そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。

 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。
ひがみが強くなったり、がんこになったりする。

幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。
「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、そ
れが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴
で、容赦しないのが特徴。

弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹
の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。

 一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。
また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケー
ス、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。

 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするとき
は、愛情問題を疑ってみる。
そういうときは抱いてみるとわかる。
最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落
ち着く。

 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにす
る。
中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。
一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うま
でもない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●いろいろなケース

 「嫉妬がからんでいるだけに、ことはたいへんやっかいです」と、私は答えた。
それに財産問題も、からんでいる。
(財産)イコール、(欲望の追求)と考えてよい。
こうなると、さらに、やっかい。
一筋縄では行かない。

 私は今までに知ったケースをいくつか、話してやった。

(1)財産(土地)をきちんと2等分したのだが、今度は南側の土地、北側の土地で、けんかにな
ってしまった姉妹。
(2)娘の夫たち(夫には相続権はない)まで加わってきて、玄関先で毎週のように、大げんかし
た兄弟・姉妹。
(3)古い例では、『ブーリン家の姉妹』がある。
映画にもなっている。

●『ブーリン家の姉妹』

 映画『ブーリン家の姉妹』の映画案内には、つぎのようにある。

『……16世紀のイングランド。
新興貴族のトーマス・ブーリン卿は一族繁栄のために才気あふれる美しい娘アンを国王ヘンリ
ー8世の愛人に差し出すことを目論む。
ところが、王の心を捉えたのはアンの妹で凡庸だが気立ての良いメアリーだった。
一家は宮中に移り住み……』と。

 イギリス王室にも、そんな暗い歴史がある。

 で、一度こうした確執ができると、それを解きほぐすのは、ほぼ不可能と考えてよい。
姉妹でも、他人以上の他人になる。

 ではどうするか?

●「流れ」

 この種の問題は、(流れ)に任すしかない。
『時は心の癒し人』(はやし浩司)だが、その「時」にも、手に負えないときがある。
で、そういうときは、(流れ)に任す。
流れに任せておくと、やがて水がより下を求めて流れていくように、自然な形で解決する。
親が介入すると、かえって火に油を注ぐようなことになりかねない。

 姉妹関係は壊れたまま。
姉とボーイフレンドが結婚するようなことにでもなれば、さらに壊れる。
そうなればなったで、もうどうしようもない。
この先もずっとそうと、あきらめる。
『あきらめは悟りの境地』(はやし浩司)ともいう。
コツは双方の聞き役に回り、親が意見を言ったり、結論を出してはいけない。
成り行きに任せれば、姉妹双方で、何らかの結論を出す。
あとは、それに従う、と。

 運命というのは、そういうもの。
無数の糸が、複雑にからみあいながら、その人の人生を決める。
「家」にしても、そうだ。
家の運命も、それで決まる。

 ……ということで、今朝はここまで。
昨夜、ワイフが食パン製造器をセットした。
そのにおいが、この2階にある書斎まで入ってきた。
「8時30分にセットしたはず」と。
今、時計を見るとその8時半。
台所のほうで、カチャカチャと器具を外す音がする。

 では今朝はここまで。
2012/01/09朝記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『時は心の癒し人』『あきらめは悟りの境地』について書いた
原稿を探してみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『時は心の癒し人』(2003年07月15日記)

●子育て随筆byはやし浩司(978)

A市にお住まいの、Bさんからのメール

先日、A市での講演会に行かせていただきました。HPも見させていただき、色々思う事があり
ました。

私の兄は公務員で一人暮らし、二年ほど前に神経症になりました。
ある日、兄から電話があり、「お父さんが俺の仕事場の上司に俺の話をしているみたいだか
ら、上司に電話したりするのはやめるように言ってくれ……」ということでした。
私は実家に帰ったときに早速その話をしました。

父は「おかしいな。そんな話したことないのに……」と言い、その返事も兄に伝えました。

それからも何度かそんな内容の電話が兄からかかってきましたが、父の返事は変わりません
でした。

そんな電話から三か月くらいあとだったでしょうか、四国に旅行中の両親から電話があり「KK
(兄)が調子悪くなって家に帰っているみたいだから、様子見てきて!」という事だったので実家
に行ってみたところ、生気のない兄が母達が留守だった為、雨戸も開けずに暗い家の中にい
ました。

話しを聞けば病院で神経症と診断され、仕事を二週間休んできたという事でしたが、私にはと
ても二週間で復帰できるような状態でないことがわかりました。旅行中の両親も旅行をとりや
め帰宅。

その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が
私の家に来たり……。

兄は乱暴ではなく、とにかく元気がない状態。目の感じが違っていました。
仕事を休み始めた当初は私を呼びだし「俺、ホントに頭がおかしくなるかもしれないから、後は
頼むな……。」

と言われた事もあります。「それだけ分かってるなら、頭おかしくないよ! 頭おかしい人はそ
んな事言わない」と返事しましたが、その返事も、それで良かったのか悪かったのか……。

どんな治療をしたかは、私は詳しく聞きませんでしたが「病院かえた方がいいかな?」とか、「こ
の薬は普通こういう病気では処方されないらしい……」とか、とにかく、何もかもに神経質にな
っているのがわかりました。

あの時のおかしな電話の事もこれだったんだ……と後からわかりました。被害妄想のようなも
のだったようです。

「役所でみんなが俺の話をしてる。」とか「噂されてる。」とか色々言っていました。
結果、仕事場に行くとパニック症状が起きてしまい、どうにもならなくなり自分から病院に行った
ようでした。

HPに、チックの事や神経症の事が書いてあるのを見て思い出したのですが、兄は小学校の
頃チック症状で、目をぱちぱちさせていました。
それを母がとても気にしていました。

兄は昔からすくお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしていました。誰かが病気になると自分も
調子が悪くなったような気がする……とか、とにかく変わった人でした。そして、神経症と診断さ
れてから一年後、軽い鬱病だった……という診断にかわり(?)ましたが、とりあえず仕事に復
帰出来る状態にまで回復し、今は部所を変えていただき、実家からなんとか仕事に通っていま
す。

チックに始まり、三四歳で神経症。同じ家庭環境に育った私は何事もなく過ごしています。
今、私には、年中児の息子と五年生の息子、中三の息子がいますが、子育てにおいてあれこ
れ真剣に考えることもなく過ごして来たような気がします。

でも兄をみて、HPをみて、小さい頃のささいな事と思えたものが、その後大きな問題に発展し
てしまう恐怖を感じました。

長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします。

数日前、私の親類の子供が、脳炎を起こしました。結果、大脳がほとんどやられてしまってい
て、治療の方法がない……と言うことでした。お見舞いに行きましたが、いとこは泣いていまし
た。
かける言葉も見つからない状態です。

そんなこともあって、「おまえは生きているだけでいい……」という言葉が耳から離れません。

+++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Bさんへ】

 講演をしていて、一番、気をつかうのは、聞きにきてくれた人に、不安感を与えないということ
です。もし私の講演が、Bさんを不安にしてしまったようでしたら、どうかお許しください。

 率直に言って、一つの講演の中でも、私は無数の話を織りまぜます。
で、そういう話のひとつずつに、それぞれの人が、まったく別の反応を示します。
ときに、私がまったく予期しないところで、まったく考えもおよばなかった反応を示す人もいま
す。
実のところ、Bさんがそうで、私は、申し訳ない気持ちで、いっぱいです。できれば楽しく、ハハ
ハと笑っていただければよかったのですが……。
しかし私の話は、いつも暗いですね。申しわけありませんでした。

 が、私がここで答えられる部分は、「長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一
回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします」という部分だ
けです。
 
 これについては、寝言にしても、「たまに」ということですし、おねしょも、終わっているという点
で、もう心配する必要はないと思います。
それに寝言にせよ、おねしょにせよ、ほとんどの子どもが経験することで、大きな問題ではあり
ません。

 ただ子どもを包む環境が、神経質になっていないかは、反省してみてください。
コツは、子ども自身が安心して休めるような、時と場所を、家庭の中に用意することです。
子どもを、温かく包むように、無視する。
子どもの側から見て、親の視線を感じさせないようにします。

 こういうケースでは、Bさん自身が、問題そのものに気づいておられますので、少し時間はか
かりますが、それで問題は解決します。
どうか自分を信じてみてください。

 で、話を戻します。

 お兄さんの件ですが、どの家庭も、外から見ると、うまくいっているように見えますが、それぞ
れ似たような問題をかかえています。
ほとんどが、そうではないかと思います。
みんなある意味で、懸命に、そして必死に、そうした問題と戦っています。
ですから、決して「自分だけが……」と思ってはいけません。
思う必要も、ありません。

 心だって、たまには病気になるのです。
ただふつうの、つまり風邪や肺炎のような体の病気と違うところは、心の病気は、外から見え
にくいということ。
それにたいてい長期にわたるということです。
こじらせれば、一生つづくということも、珍しくありません。

 だから心が病気になったからといって、深刻になること自体、おかしいのです。
しかもこの種の「心の病気」は、まじめな人ほど、なります。
もっとわかりやすく言えば、そうなったとしても、基本的には、その人を取り巻く、社会や環境の
ほうが、おかしいのです。
脳に機質的な問題があれば、話は違いますが、機能的問題であれば、今、ほとんどの病気は
治るという時代です。

 かく言う私も、過去において、何度か、人生そのものに絶望したことが、あります。
人前では、いつも明るく振る舞っている私ですが、実のところ、心はボロボロ。
私ほど、心の病気のデパートのような人間は、少ないと思います。
よく私は、「あらゆる精神病を、広く浅くもっている」と冗談ぽく言いますが、それはまちがってい
ません。

 また生まれながらにして(?)、家庭問題のいざこざには、常に悩まされました。
実のところ、今も悩まされています。
しかし私のばあいは、どれも長期で、もうなれたというか、あきらめたというか、そういう状態に
なっています。
またそういう私を悪く言う人もいますが、「勝手にどうぞ」という心境です。

 Bさんについても、今さら過去をほじくりかえしても、意味はありませんし、今の問題がどうか
なることもありません。
しかたないのです。
みんな、懸命に生きていても、どこかで穴があき、そこから水が漏れることだってあるのです。
懸命に生きていても、どうにもならない問題が、起きるときには、起きるのです。

 ここで大切なことは、仮にそういう問題が起きたとしても、それは私やあなたの問題ではない
ということです。
それが人間が、人間であるがゆえに、つまりは生きることにまつわる限界のようなものです。
そんなわけで、つぎに大切なことは、そういう問題が起きたとしても、それはそのまま、受け入
れるということです。
まさに「なるようになれ!」と自分に言ってきかせることです。

 この言い方は、一見、無責任な言い方に見えるかもしれませんが、あのジョン・レノンも、『レ
ット・イット・ビー』の中で、そう歌っています。
「♪レット・イット・ビー(あるがままにせよ)」と。
実のところ、私もずっと、そうしてきました。ものごとというのは、なるときには、放っておいても、
なる。
しかしならないときは、がんばっても、ムダ……ですね。
とくに心の病気について言えば、そうではないでしょうか。

 ただお母さんの態度は、あまりほめられたものではありません。
娘のあなたに、「その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げ
るようにして父が私の家に来たり……」とは?

 「逃げるようにして……」というのは、お父さんが、お母さんから、「逃げる」という意味でしょう
か。
こういうケースでは、一番、自分を律しなければならないのが、お母さんなのですが……。
少し残念ですね。
お母さん自身が、あなたのお兄さんを、まったく受け入れていないばかりか、そうした態度が、
お兄さんのみならず、あなたをも苦しめていることに気づいていない?
 またあなたのメールだけで、こう結論づけるのは、危険なことかもしれませんが、お兄さんが
子どものころ見せた、いろいろな神経症による症状(チックなど)の原因も、お母さんにあった
のではないかということです。
こういうケースでは、母親の態度というか、姿勢が、一番、重要なカギを握ります。
そのお母さんが、こうまで動揺してはいけません。

 ……と、ほとんど回答になっていない返事で、ごめんなさい。ただ言えることは、ことあなたに
ついて言うなら、『時は、心の癒し人』ということです。
時間が解決してくれます。時間がたつと、あなた自身が、周囲を受け入れ、そして心穏やかに
なります。こういうときは、あせって、あれこれしないほうがよいです。
じっとがまんします。(もちろんそれでお兄さんが、よくなるとかということではありませんが…
…。あくまでも、あなた自身の問題が、です。)

 最後に、お兄さんがそうだったからといって、あなたのお子さんが、そうなるということは絶対
にありません。
どうか過剰に不安になったり、心配したりしてはいけません。
一つだけ心配される点について、書いておきます。

 あなたのお母さんとあなたのお兄さんの関係においてですが、あなたのお母さんは、お兄さ
んを、全幅には受け入れてはいなかった? 
それが今いる、「お兄さん」をつくったと考えられます。
いろいろ事情があったのでしょう。
だからあなたのお母さんを責めても意味はありません。

 ただそういう関係、つまりあなたのお母さんのもつ、子育て観が、今のあなたの影響を与えて
いる可能性はあります。
これを心理学では、世代伝播とか連鎖とか言います。つまり子育ては繰りかえすということで
す。

 そこでこれはあなたにとって、たいへんつらいことかもしれませんが、「母親である」という虚
像というか、偶像を排除して、一度、あなたのお母さんを、一人の人間として、冷静に判断して
みてください。
そしてあなたのお母さんのもつ、人間的な欠陥というか、精神的な未完成部分というか、はた
また情緒的な未熟性というか、そういうものを、冷静に判断してみてください。

 そしてそれに気づいたら、あなた自身は、それを繰りかえさないようにします。あなたの子ど
もに対して、です。
そこだけを注意すれば、もう心配はありません。ほとんどの人は、それに気づかないまま、同じ
ことを繰りかえします。
どうかご注意ください。
繰りかえしますが、だからといって、あなたのお母さんを責めても意味はありません。
多分、もうかなりの年齢の方だと思います。
人間も、満四五歳前後を境に、あとは、急速に、人間的な進歩をやめます。
ばあいによっては、そのころを境に、退化します。
年配だから、人間的にもすぐれているだろうと考えるのは、幻想以外の何ものでもないというこ
とです。

 では、今日は、これで失礼します。また何かあれば、ご連絡ください。なおあなたからのメー
ルは、このような形で、マガジンに転載させていただきますが、よろしくご了解ください。勝手な
お願いですみません。よろしくお願いします。
(030715)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 姉妹の確執 嫉妬 子どもの嫉
妬 はやし浩司 チック チック症)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あきらめは悟りの境地(中日新聞にて発表済み)

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。
子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路
に入る。
そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。
要はどの段階で、親があきらめるかだが、その時期は早ければ早いほどよい。
……と言っても、これは簡単なことではない。
どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、
自分が失敗するとは思っていない。
「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。
また行きつくところまで行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。
それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。
そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」
「自分ならどうするか」という視点で考える。
あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。
子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。

たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分な
らできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。

「あなたの料理のし方、76点。
接客態度、54点。
家計簿のつけ方、80点。主婦としての偏差値48点。
あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。

またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを
叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。
子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

 親というのは身勝手なものだ。
子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。
子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。
そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。

そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。
親子のきずながその時点からまた太くなり始める。
もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほし
い。
それで道は開ける。

(以上、2012/01/09記)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

**********以上、はやし浩司 2012年01月09日**********


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人間が存在する意味】

●映画『フライト・ナイト』(Fright Night)

 昨夜、映画『フライト・ナイト』を観てきた。
昨日が、封切り日だった。
あまり観たくなかった。
この種の映画は、見飽きた。

が、このところよい映画がない。
ボケ防止のためにということで、観てきた。
内容は、3流。
予想通り、意味のない恐怖映画。
星はつけようもない。

 帰りに劇場から歩いて5分ほどのところにあるレストランで、遅い夕食を食べた。
すでに時刻は午後10時を回っていた。
そこでワイフと、こんな話をした。

●ドラキュラ※

 ワイフがこう聞いた。
「ドラキュラって、本当にいるの?」と。
私は即座に、こう言った。
「いるわけがない。『いる』という意味がない」と。

 映画『フライト・ナイト』は、ドラキュラの映画だった。
そのドラキュラ。
どんな生物にも、その生物が存在するためには、その「意味」がある。
たとえば庭を這うアリにしても、そうだ。
もしアリがいなければ、この地上は、ゴミだらけになってしまっていただろう。
動物や虫の死骸だらけになってしまっていただろう。

 蚊にしても、ネズミにしてもそうだ。
基本的には、ふえすぎた生物を減らすという「意味」のために、「存在」する。
(もっとほかの「意味」もあるかもしれないが……。)

 アリがいるから、地上はいつも、クリーンな状態に保たれる。
蚊にしても、ネズミにしても、伝染病を蔓延させることで、「数」を減らす。
あのクモにしても、もしクモがいなかったら、人間は絶滅していただろうと言われている。
私の意見ではない。
生物学者たちの常識である。

それが「意味」ということになる。

 では、ドラキュラは、どうか?
存在したからといって、どういう意味があるのか?

 つまり意味がない。
いなくても、何も困らない。
意味がない生物は、10万年単位の淘汰を経て、絶滅する。
1万年でもよい。
1000年でも、100年でもよい。

(注※……ドラキュラではなく、「バンパイア」のまちがい。以下、同じ。

●思考力

 言い換えると、人間にしても、そうだ。
人間が「存在」するには、それなりの「意味」がある。
「意味」があるから、この世界に「存在」する。

 それを人間自身が自覚しているかどうかは、わからない。
庭を這うアリと同じように、自分たちの「存在の意味」を知らないまま生きているかもしれない。

が、人間には、思考力がある。
こうして文にして、他人に、考えたことを伝える能力がある。
そういう能力をフルに使えば、人間は、自ら、その「意味」を知ることができるかもしれない。
人間の「存在」をはるかに超えた、その向こうにある「意味」を知ることができるかもしれない。

 その「意味」を知ることが、人間の英知の最後の目標ということになる。

●人間の存在

 が、反対に、もし人間が「存在する意味」を失ってしまったら、どうだろうか。
たとえば今、地球温暖化が深刻な問題になっている。
人間どころか、そのため、ありとあらゆる生物が絶滅するかもしれない。
つまり「人間の存在」そのものが原因で、地球を火星のようにしてしまうかもしれない。

 人間という、たった一種類の生物のために、その他ありとあらゆる生物が犠牲になる?
もしそうなら、人間には「存在する意味」がないということになる。
が、そう考えることは、あまりにも絶望的。
またそういうふうには、考えたくない。

●がん細胞

 昔、東大の松井孝典教授(東京大大学院教授・惑星物理学)が、何かの会議でいっしょにな
ったとき、こんなような言葉を使った(「愛知万博・諮問委員会)。
「生物圏」と。
(「生命圏」だったかもしれない。あるいは「人間圏」だったかもしれない。)

 宇宙から見ると、個々の生物を見ることはできない。
が、地上には「生物圏がある」と。

 私はその言葉を聞きながら、「ああ、人間って、がん細胞と同じだな」と思ってしまった。
宇宙から見ると、地球そのものが生命体。
生物は、その地球の表面を、皮膚のように覆っている。
つまり人間が住む「生物圏」は、まさに細胞の集合体のようなもの。
その細胞の中にあって、人間は自ら、地球という生命体を自ら滅ぼそうとしている。
だから、がん細胞。

 が、「がん」にしても、「存在する意味」がある。
最終的には、がんが、生命にピリオドを打つ。
もしがんがなければ、それこそ地球上は人間だらけになってしまう。
人間だらけになってしまったら、人間の進化は、そこで停止してしまう。
絶滅してしまう。

 つまりがんは、最終的には古い人間を解体するという「意味」をもっている。

 がんによって、古い世代が死に、新しい世代が生まれる。
そのプロセスの中で、人間は、進化をつづけることができる。

●貪欲さ
 
 ということは、仮に地球が火星化したとしても、そうするのが人間の「存在の意味」ということ
になる。
つまりありとあらゆる生物を絶滅させる。
そのために人間は存在する(?)。
が、先にも書いたように、そういうふうには考えたくない。
またそんなことには、だれも、納得しないだろう。
この文章を読んでいるあなたにしても、「バカな!」と言って吐き捨てるかもしれない。

 そこでもう一歩、踏み込んで考えてみる。
地球を破壊しつつあるのは、人間なのか、と。
「人間の存在」なのか、と。

 どうもそうではないような気がする。
現在、この地球を破壊しているのは、「人間の存在」ではなく、「人間が原罪的にもつ貪欲さ」
が、原因ではないか、と。

 もし人間が、ほんの少しだけその貪欲さをコントロールできれば、地球を破壊しないですむか
もしれない。
要するに、これは「頭の使い方」の問題であって、「存在」の問題ではない。

●「淘汰」というテスト

 が、こうも考えられる。
人間は、現在、宇宙的な規模で、テストされているのではないか、と。
飛躍した意見なので、驚く人もいるかもしれない。
が、ありえないことではない。

 もしどこかの惑星に、生物がいたとする。
その生物が、進化を遂げ、人間のような知的生物になったとする。
その生物は、やがて宇宙へと乗り出していくだろう。
ちょうど昔の船乗りたちが、海へ出て、つぎつぎと大陸を発見していったように、である。

そのとき、もしこれらの生物がみな、宇宙へ飛び出したとするなら、今ごろ、この宇宙は、東京
の渋谷や新宿のようになっていたはず。
この銀河系だけでも、100万の「技術文明」が存在するという(「ドレイク方程式」)。

 つまり宇宙人だらけ!

 が、そうなったら、それこそ星間戦争が始まるかもしれない。
知的にすぐれているだけに、宇宙人たちがもつ武器も、それに比例して破壊力も大きくなる。
太陽くらいの星なら、一瞬にして消すこともできる。
そうなったら、宇宙全体が、危機に瀕する。

 そこで今、私たち地球人は、その「淘汰」というテストを受けている。
「宇宙へ飛び出す、宇宙人としてふさわしいか、どうか」と。

 地球が火星化し、知的生物がそこで絶滅する。
その資格がないなら、その時点で、絶滅する。
宇宙規模で生命を考えるなら、それも「あり」ということになる。
地球程度の惑星なら、それこそ掃いて捨てるほどある。

●本質的な問題

 人間が、科学、文化、芸術、教育、宗教……、ありとあらゆる英知を使って立ち向かうべきも
の。
すべての英知の最終目標といってもよい。
それが人間が原罪的にもつ「貪欲さ」ということになる。

 この貪欲さの克服なしに、人間は、知的生物の地位を確立することはできない。
地球温暖化の問題も、いろいろな分野で議論されている。
しかしそれは言うなれば、各論。
それとも対症療法?
少なくとも本質的な問題ではない。
本質的な問題は、「貪欲さ」。
強欲さ。

この問題が残るかぎり、地球温暖化の問題は解決しない。
人間……ここまでくると、「人類」と書くべきだが……人間が絶滅するのも、しかたないというこ
とになる。
つまりまさに今、私たち人間は、宇宙的な規模でテストされている。

 英知をうまく結集できれば、私たちはこの宇宙で、宇宙人として生き残ることができる。
そうでなければ、「存在の意味」を失う。
その前の段階で絶滅する。

●ドラキュラ

 話が大きく広がってしまった。
再びドラキュラの話に戻る。

 中世のヨーロッパには、人間の血を飲む集団があったらしい。
カルト教団のひとつと考えてよい。
それがドラキュラの原点という説もある。
つまり「フィクション」。
作り話。
フィクションだから、その存在の有無を論じても意味はない。
日本の幽霊とかお化けと、同じ。
もし「存在の意味」があるとするなら、この日本にも、「いた」はず。
西洋だけにドラキュラがいたというのは、論理的に考えても、おかしい。

私「しかしどうして西洋人は、ああまでドラキュラが好きなのかねえ」
ワ「ホント!」と。

 日光に当たると、燃え出すとか、あるいは十字架を見せると、退散するとか、いろいろ考えて
いくと、矛盾だらけ。
論ずるのもバカらしいほど、矛盾だらけ。
娯楽映画は娯楽映画。
その範囲で楽しめばよい。
『フライト・ナイト』は、そういう映画。

 観れば、少しはボケ防止になる。
ここに書いたことを参考に、そのあと、何かの議論をしてみると、おもしろい。

 では、今朝はここまで!
これから義兄夫妻と山荘で、会食。
未完成な原稿だが、このまま掲載する。
ごめん!
(はやし浩司 2012−01−08記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 人間の存在の意味 人類はなぜ
存在するか ドレイク方程式 ドレイク公式 宇宙人の存在 はやし浩司 幸福論 はやし浩司
の幸福論 幸福論byはやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・家族論byはやし浩司】(「家族崩壊(申京淑)」をどう考えるか)

+++++++++++++++++++++++++++

今、「家族崩壊」が、急速に進んでいる。
少子化だけが原因ではない。
日本人の意識が、180度、逆転してしまった。
なぜか。
またこの問題について、私たちはどう考えたらよいのか。

+++++++++++++++++++++++++++

●快晴

 今日は快晴。
山荘へ行く途中、富士山が見えた。
濃紺の山々の向こうに、白い頂(いただき)が、見えた。
この浜松でも、富士山が見える日は、めったにない。

●山荘へ

 車は今、我が山荘へと向かっている。
自宅から、35〜40分。
場所はxx町。
xx山の中腹あたりにある。

 ……その昔、そのあたりをワイフと2人で歩き回った。
そしてたどりついたのが、現在の山荘あたり。
一目見て、「ここだ」と。
そこに私たちの夢を「建てる」ことにした。

 が、それからがたいへんだった。
地主が、なかなか「うん」と言ってくれなかった。
時折しも、バブル経済。
月ごとに、土地の価格は上昇していた。

●山荘

 結局、小山だが、一山買うような形になった。
宅地らしい形はできていたが、山は山。
それからというもの、つまり買い取ってからは、私たちが自ら造成した。
土日ごとに、ユンボを借りてきた。
それで造成した。

 以来、26年以上。
宅地造成に6年。
建築に半年。
家だけは、地元の建築会社に頼んだ。
「一条工務店」(会社名)といって、地元でも、もっとも信頼のおける建築会社だった。
「山荘だからといって、ぜったいに手を抜かないでほしい」が、私が出した条件だった。

●義兄夫婦

 今日はその山荘に、義兄を招待した。
「一席、もうけますから」と。
義兄は、喜んでそれに応じてくれた。

 ……義兄夫婦といっても、ワイフにとっては、両親的存在。
ワイフは4歳のとき、母を亡くしている。

●会食

 会食といっても、大げさなものではない。
仕出し屋で頼んだ弁当。
それを4人で食べた。
弁当はいつも、市内の一兆庵で頼んでいる。
四季折々の弁当を届けてくれる。
味もよく、値段も良心的。

●成人式

 今日は成人式。
忘れていた。
義兄の孫が、その成人式を迎えた。
義兄夫婦は、孫の話をしながら、うれしそうだった。
が、ここで待ったア!

 「今の若い人たちは、ぼくらの青年時代とは、ちがうね」と義兄。
誤解がないように言っておく。
その話題を持ち出したのは、義兄のほうだった。

●仕送り

 義兄は、現在、76歳。
その義兄も、ボーナスを手にすると、毎年、全額、親に送っていたという。
当時はそれが常識だった。

 私もそうしていたし、つづく世代の人たちも、みな、そうしていた。
が、それが今は逆転した。
成人式の祝いをするのも、ジー様、バー様だそうだ。
孫に祝い金(おひねり)を渡すのも、ジー様、バー様だそうだ。
「どうして?」と私が聞くと、「今の若い人は、貧乏だから」と。

●ワーキング・プア

 貧乏ではない。
目いっぱいの生活をしている。
だからいつも、お金が足りない。
車にパソコン、マンションに家具一式……。
だから貧乏?

 足りなくなると、親にせびる。
「車を買う金がないから、貸して」と。
返済計画をプリントアウトして、もってきたりする。
親だましの小道具。
しかし返す気は、最初からない。

●甘やかし
 
 どうしてここまで変わったか。
親子の立場が、逆転したか。
いろいろな説がある。

 が、基本的には、(甘やかし)。
それが世代間の意識を、逆転させた。
今の若い人たちは、「親にしてもらう」のが、当たり前と考える。
もう20年も前のこと。
そのころ書いた本に、こんな話を書いた。

 ある母親が、臆面もなく、私にこう言った。
「生活費が足りないので、毎月、親に援助してもらっています」と。

(この話とて、20年前の話だぞ!)

●生活費は7分の5

 そういう話になると、話題が尽きない。
こんな例もあるという。

 その若夫婦は、毎週、土日は、夫の実家で過ごすという。
さぞかし親孝行夫婦と思いきや、中身はそうでない。
その若夫婦は、土日を実家で過ごすことによって、食費や生活費を浮かしていた。
つまりそうすれば、生活費は、土日分を除いて、7分の5ですむ。
(7分の2は、実家の両親が負担する。)

 ついで孫の世話を両親に押しつけ、自分たちは遊び放題。

●孫はかわいい?

 そうは言っても、孫が、「ジイジ……」「バアバ……」と寄ってくると、かわいい。
ほろっとする。
ほろっとして、「何か買ってやろうか」となる。

 が、ここでも待ったア!

 サイコパス(サイコパシィ)という言葉を聞いたことがあるかと思う。
反社会的人格のひとつ。
精神病質のひとつと考えられている。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け
容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽
くした人を後に残して行く。
良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、
人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』(ウィキペディア百科
事典)と。

 そのサイコパスは、大別して、先天的なものと、後天的なもの(ソシオパス)に分けて考える。
後天的というのは、『親の育て方など』(ウィキペディア百科事典)によるものとされる。

 そのサイコパス(サイコパシー)とはちがうが、似ている部分もないわけでない。
たとえばあなたが孫に、高価なプレゼントを買ってあげたとする。
あなたはそのとき、「孫は喜んでいうはず」「感謝しているはず」「孫との絆(きずな)は太くなっ
たはず」と考える。
しかし孫は、そうではない。
ひょっとしたら、こう考えるかもしれない。

 「しめしめ……うまくやった」「このジジーは単純だから、ちょっと甘えれば何でも買ってくれる」
「もっと高価なものを買わせてやろう」と。

 こうしたものの考え方が、(そういうふうに考える孫は少数派と信じたいが)、どこかサイコパ
ス(サイコパシー)的。
ものの考え方が、捕食的。

●欲望の渦

 実は、私たち老人組は、その愚かなことをしてしまった。
「子どもには、つらい思いや、ひもじい思いをさせたくない」と。
「貧乏で苦労させたくない」とか、「もっと楽しませてやりたい」とか、そんなふうに考えた人も多
いはず。

 さらに戦後のあの物質文明の中で、自分を見失ってしまった。
「より高価なものを買ってやれば、親子の絆(きずな)も、その分だけ太くなる」と。
結果、子どもの周辺には、モノがあふれた。

 が、もちろん弊害も現れた。
物欲の追求に慣れた子どもたちは、物欲的に自分を満足させることを、「善」とした。
……というのは書き過ぎかもしれない。
しかし「子どもたちが欲望の渦の中で、溺れてしまった」というのは、それほどまちがっていな
い。

●恋愛至上主義

 戦後の日本は、当然のことながら、アメリカ文化の影響を強く受けるようになった。
その第一が、恋愛至上主義。
「恋愛こそが人生の一大事」と。

 現在の若い人たちは、「恋愛」を人生の柱に据えた。
「恋愛が、すべて」と。
映画『タイタニック』を例にあげるまでもない。
が、そんな程度のことなら、街中をうろつくイヌやネコでもしている。
イヌやネコでもしていることをしながら、「これが人間だ」と。

 まちがっているというより、馬鹿げている。
だから今では、自分たちの結婚式の費用ですら、親(ジー様&バー様)が負担する。
で、あとはお決まりの、「家族偏愛主義」。
「仕事より家族」と。

 それがまちがっているというのではない。
私たちの世代は、仕事のために家族を犠牲にした。
その反動が、行きすぎてしまった。

●反射的弊害

 昔は、「家族」というと、そこにはかならず、祖父母の姿があった。
祖父母がいて、両親がいて、そのつぎに子どもがいた。
が、今は、ない。
若い人たちが「家族」というときは、自分たち夫婦と、その子どもだけをいう。
目が下ばかり、向いている。

 だから今、その反射的弊害として、老人問題が起きている。
独居老人はふえ、孤独死、無縁死は、当たり前。
この先、60%の老人が、そういう死に方をするという。
介護施設にしても、100〜200番待ちは、当たり前。
1〜3年待ちも、これまた当たり前。

 私たち老人組だけの話ではない。
現在、40歳以上の人たちが、そうなる。

●限度

 わかりやすく言えば、私たち日本人は、限度を超え、子どもたちにやりすぎてしまった。
一億、総親バカ!
親バカなことをしてしまった。

 これは一例だが、子どものときから「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てるから、その責
任を取らされる。
今では、(もう30年前からそうだが)、親に感謝しながら高校へ通う子どもなど、ゼロ。
大学生でもいない。
アルバイトをしている学生にしても、学費のためではない。
遊興費のため。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすら、いる。

●大勢

 こういう現実を前にしても、まだ「うちの子はだいじょうぶ」とか、「うちの子にかぎって」と、は
かない幻想にしがみついている親は多い。
が、子どもの先生は、子ども。
仲間。
あなたがいくらがんばっても、そこには限界がある。
大勢という流れの前では、あなたの抵抗など、激流に差した、竿のようなもの。
あっという間に、あなたの子どものその大勢の渦の中に、のみこまれていく。

 あなたの子どもだけが無事……ということは、ありえない。

●では、どうするか

 つまるところ、あのバートランド・ラッセルの言葉に行きつく。
バートランド・ラッセルは、こう言っている。

 それについて書いた原稿をさがしてみる。
一部内容がダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)(はやし浩司 2011−06−29日記)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++

韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろう
か」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感す
ることが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)と。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。
私たちが当たり前のように耳にしながら育った。
この言葉は、いざ両親に対しては、かけたことがない。
言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではな
い。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2,30年後に許してやる」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。

『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。

『自動二輪の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう5年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話)を書くときは、その本人とわからないように書
く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてし
まった」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年
以上、会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母、つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない
 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、
 
 イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。
 
もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。

「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。

「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。
へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩
司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●良縁?

 かなりネガティブな意見を書いた。
もちろん中には、すばらしい(?)親子関係を築いている家族もいる。
が、その(すばらしさ)も、見方を変えると、一転する。

たとえばある母親は、自分の娘が、地元の会社に勤める男性と結婚したことを、「良縁、良縁」
と言って、喜んでいた。

 たしかにその母親にしてみれば、そうかもしれない。
「男を取ってきた」ということになる。
が、相手の親、つまり婿の親は、どうなのか?
その母親が「良縁、良縁」と騒げば騒ぐほど、相手の親にとっては、「悪縁」。
つまりこのあたりに、「家族論」の限界がある。

 新年を迎え、すでに8日が過ぎた。
義兄と話しながら、こう思った。
「今夜、家に帰ったら、もう一度、家族論について考えてみよう」と。

 それがこの原稿である。
子育てのあり方を見つめなおす、ひとつのきっかけになればうれしい。
もちろん、あなた自身の子育てが、うまくいくことを願いながら……。

●義兄と……

 義兄はこう言った。

「こうした問題は、この先、何世代もつづくでしょうな」と。

 私も、そう思う。
一度緩んだネジは、簡単には元には戻らない。
韓国の申京淑は、「家族崩壊」という言葉を使った。
欧米化といっても、それが正しいわけではない。
そこに至るには、それにふさわしい社会制度の整備が必要。
欧米では、そうした周囲制度が、すでに整っている。
家族崩壊を前提とした社会が、整っている。
が、この日本では、そうでない。

 私たちの世代はそれでよいとしても、つぎの世代、さらにそのつぎの世代……。
苦労するのは、そういった世代ということになる。

 私たちは自ら、自分の首を絞めてしまった。
つぎの世代は、さらに強く、自ら自分の首を絞めることになる。
「自分たちは、自分の親のようにはならない」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験す
る。
「自分たちは、すばらしい家族を築く」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。

 中には、「私たち若者を、ここまでけなすことはないだろう」と怒る人もいるかもしれない。
その(怒り)はよく理解できる。
しかしもちろん、私はそれを願っているわけではない。
若い人たちは若い人たちで、すばらしい人生を送ってほしい。
そのヒントになればと思い、あえて『新・家族論』(家族崩壊)について書いてみた。
若い人たちは、私たちが犯した「愚」を、けっして繰り返してはいけない。 

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 バートランド・ラッセル 限度 子育ての限度 はやし浩司 申京淑 『ママをお
願い』 家族崩壊 家庭崩壊 はやし浩司 親子論 逆転した親子関係)

 
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【年中児の数遊び】2012年2月13日、収録

いろいろな数遊びをしてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」2012年2月へとお進みください。
楽しいですよ。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/6SxRBNOWMoA" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/yIQIzB_0f1M" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/uJevQh2D8iE" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(4)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/YgpgaDqcv5k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【鬼嫁】【権威主義(都会人的優越感、田舎人的田舎根性】

●R先生へ

++++++++++++++++++++

昼は、おせち料理の残り物+お汁粉(しるこ)。
それだけ。
このところ肥満気味。
昨夜は、計10キロ近くを歩いた。

で、今日。
1月5日。
食事のあと、軽く(?)、30分ほど運動。
ウォーキングマシンの上で、歩いた。
その前に、読者の女性(母親)から、子育て相談があった。
1時間ほど、電話で話した。
どこの女性かは、わからない。
その女性は、関西弁を話していた。

それもあって、今は眠い。
本来なら昼寝タイム。
しかし今は、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
頭の中がモヤモヤする。
それを叩き出したい。

深いあくびと、睡魔。
それが時折、私を襲う。

+++++++++++++++++++

●R先生

 R先生が、嫁のことで苦しんでいる。
年末に、またまた大騒動があったという。
年賀状に、そう書いてあった。
「困っています」と。

 ひどい嫁ということは、よく知っている。
つい先日も、R先生のところへやってきて、「100万円、よこせ!」と。
で、R先生が、「5万円くらいなら……」と言って5万円を渡すと、その嫁は、その5万円を床に
叩きつけ、そのまま帰っていったという。
無言のままだったという。

 一事が万事。
万事が一事。
そういう嫁である。
つまりそういう嫁(女性)も、世間にはいる。
そうでない人には信じられないような話だが、この話は、事実。

●息子氏

 書き忘れたがR先生は、女性である。
夫のU先生は、10年ほど前に、他界している。
U先生は、そのあたりでは著名な整形外科医だった。
また私と、夫だったU先生とは奇縁で、たまたま郷里が同じだった。
30年近く、たがいに行き来した。

それで親しくなった。

で、夫のU先生が亡くなってからは、妻のR先生と、そのまま交際している。
今年、R先生は、xx歳になる。

 R先生は、いつも嫁の夫、つまり自分の息子氏に、電話をかけたり、手紙を出したりした。
が、その嫁が、電話を取りつがない。
手紙は、途中で勝手に処分してしまう。
……というようなことが繰り返され、私が、代わりに息子氏との連絡係をすることになった。

息子氏と私は、ほぼ同年齢。
息子氏の結婚式では、私が友人代表を務めさせてもらった。
U先生(夫)がなくなったときは、葬儀場で、弔辞を読ませてもらった。

 その息子氏がある日、私にこう言った。
「ぼくら、形だけの夫婦です」と。

 まだ結婚して間もない、20年近くも昔の話である。
そのころ、すでにそういう状態だった。

 離婚話も何度か出た。
が、そのたびにその嫁は、狂ったように暴れ、それに抵抗した。
家族たちが集まり、その嫁を病院の精神科へ連れていこうとしたときも、そうだった。
狂ったように暴れ、それに抵抗した。

 何度か私が間に入って仲裁したこともあったが、無駄だった。
息子氏は気が弱く、やさしかった。
嫁の前では一言も、口答えできなかった。

夫婦げんかも激しい。
目の前で、息子氏が、靴で殴られるのを、何度も目撃した。
(靴で、だ。)
嫁はいつも、カッとなると、靴で、夫の顔面を殴った。

また興奮してくると錯乱状態になり、手当たり次第に、ものを投げた。
私が見たときには、フライパンを夫にめがけて、投げていた。
(フライパンだぞ! まともに当たれば、死ぬぞ!)

R先生に、手紙を書くことにした。

●R先生へ

お元気ですか?
背中のかゆみは、いかがですか?

年賀状を読み、いつものこととはいえ、ショックを受けています。
つらいお気持ちは、よくわかります。
あきれるというか、何とも残念でなりません。
かといって、何もできないことをお許し下さい。
しかしこんな状態が、綿々と、こうまで長くつづくとは、私も思っていませんでした。
もう30年になります。

とはいえ、Kさん(=嫁)のような女性は、いくらでもいます。
あのとき、先方の親たちが、「良縁です、良縁です」と喜んでいた顔が忘れられません。
何が良縁ですか!
今になってみると、そう叫びたいです。

先方には良縁でも、こちら側には、悪縁ですね。
あの両親は、もともと常識に欠ける人たちです。
が、あのKさんは、会って話していると、ごくふつうの女性だから驚きます。
人なつっこく、甘ったるい言い方で話しかけてきます。
人当たりだけはよい人なので、私が「あの女性は鬼嫁」と言っても、だれも信じないでしょう。
もちろん近所の人たちは、みな、それを知っていますが……。

一度だけですが、U先生(夫)に連れられて、Kさん(=嫁)の両親と会食したことがあります。
H町の、あのレストランで、です。
そのとき気がつきました。
原因は、あの母親ですね。
つまりKさん(=嫁)は、あの母親の気性をそっくりそのまま受け継いでしまっている。
私はそう感じました。
「この母親にして、この娘」と。

そういうケースは、少なくありません。
私の知り合いにも、似たようケースがいくつか、あります。
ただ今回のケースは、……(以下省略)……。

どうであれ、先生は、すばらしい人生を送られました。
研究者としての先生の地位は、揺るがないでしょう。
お名前も、後世の研究者たちに語り継がれるでしょう。
うらやましいと思うことも、しばしばです。

あとはいつものように、忘れ、明日に向かって生きていくしかないですね。
2012年も始まったばかりです。
あんな鬼嫁のことは忘れ、私たちは私たちで楽しく生きていきましょう。
私も、まだ、あきらめたわけではありません。
今年は何かできる!
そんな期待を抱いています。

言い忘れました、今年、私は65歳になります。
かねてから人生の目標にしてきた、65歳です。
やりたいこと、やるべきことが、山のようにあります。
あとはひとつずつ、それを崩していくしかありません。

X日ごろ、遊びにおうかがして、よろしいでしょうか。
その前に一度、また電話します。
そのとき、ご都合をお聞かせくだされば、うれしく思います。

                    林 浩司

●何ともしようがない

 R先生は、薬学の世界ではよく知られた女性である。
著書もあり、論文の数も多い。
4、5年前のことだが、こんな話をしたことがある。
「先生のように、ボケない秘訣は何ですか?」と。

 R先生は、「何もありませんよ」と言って、カラカラと笑っていた。

 R先生という先生は、そういう女性である。

 ただ息子氏の嫁には、恵まれなかった。
息子氏が結婚して以来、苦しみと悲しみの連続。
嫁が起こしたトラブルは、数知れず。
そのたびに、U先生(=夫)が、あちこちを走り回っていた。
U先生にしても、つらい毎日だった。
が、かといって、こうした問題だけは、私には何ともしようがない。
夫婦の問題は夫婦の問題。
私のほうから離婚を勧めるというわけにもいかなかった。
そういう相談があれば、相談に乗ることもできたのだが、先にも書いたように、息子氏はもの静
かな男性。

 が、これも人生、あれも人生。
みな、それぞれの糸を引きずりながら、自分の人生を生きていく。
「運命の糸」という「糸」である。

 かく書く、私たち夫婦だって、似たようなもの。
偉そうなことは書けない。
年がら年中、ドタンバタン……。
今朝も、どちらが先に起き、ヒーターの電源を入れるかで、もめた。
「お前、行ってこい」「どうしていつも私なのよ」と。

今、この文章を読んでいるあなたにしても、そうだろう。
「私たちはパーフェクト」と胸を張れる人はいるだろうか。
私は、いないと思う。

 話題を変える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●都会人vs田舎人

 都会人は、都会的な優越感をもっている。
半面、田舎人は田舎的な田舎根性をもっている。
人間の心理というのはそういうもの。
表があれば、かならず裏がある。
その両者が対立しながら、社会の中でバランスを保っている。

 今でこそ、こうした都会的な優越感&田舎根性も、影が薄くなってきた。
しかし私がこの浜松市に移り住んだころは、そうではなかった。
浜松の人は、「東京から来た」というだけで、何でもかんでも、ありがたがった。
それが滑稽(こっけい)なほど、大げさだった。
40年近くの前のことである。

 半面、都会の人は、明らかに浜松の人たちを見下していた。
たとえば東京の人が、浜松へ遊びに来たとする。
そのとき、みやげをもってくる人は、まずいなかった。
いつも「来てやる」という態度だった。
少し前にも書いたが、たとえば電話で連絡してくるときも、「xx時xx分に、浜松駅に着きますか
ら」と。
「だからその時刻に駅まで迎えに来い」と。

 もし反対に、私が東京に住む人に、その逆のことを言ったら、どうなるだろうか。
たとえば「東京駅に、xx時xx分に着きますから」と言ったら、どうなるだろうか。
果たして東京の人は、東京駅まで迎えに来てくれるだろうか。
親類でも、仕事上の人でもよい。
迎えに来てくれるだろうか。

 その答はここに書くまでもない。

●「東京までなら……」

 が、こうした都会人のもつ、都会的優越感はなくなったわけではない。
50代、60代の人は、いまだにその亡霊を引きずっている。
義弟がこんな話をしてくれた。

 義弟の息子氏が、埼玉県の女性と結婚することになったときのこと。
義弟は、相手の両親と一度、会うことにした。
で、電話を入れて相談すると、相手の父親が、こう言ったという。
「東京までなら、出て行ってもいいです」と。

 その「東京までなら……」という言い方が、義弟を怒らせた。
義弟は「埼玉のご自宅まで、おうかがいしていいですか」と聞いた。
その返事が、「東京までなら……」と。
義弟はこう言った。
「どうして東京の連中は、ああまで威張っているのかねえ」と。
(埼玉は東京ではないが……。
その父親は東京都内の某銀行に勤めていた。)

●中央集権意識

 その話をしながら、ワイフがこう言った。
「中央集権意識ね」と。

 日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。
「中央が上」という意識が、骨のズイまで、染みこんでいる。
加えて日本人ほど、上下意識のはげしい国民は、そうはいない。
日本は世界に名だたる、儒教国家。
たった1歳年上でも、年長風を吹かす。
(たった1歳だぞ!)
私の親類には、そういう男性がいる。

 が、今、その権威が急速に崩れつつある。
つまり都会人の優越感を支える、都会的権威が急速に崩れつつある。
同時に田舎人も、田舎根性を捨てつつある。
また捨てなければならない。
そもそもこうした上下意識には、根拠がない。
何をもって「上」といい、何をもって「下」というのか。

 ……書いていくと、どうしてもあの『水戸黄門』に矛先が向いてしまう。
いまだにああいうバカげた番組が、この日本では、大手を振って歩いている。
「もう、いいかげんにしろ」と言いたいが、意識というのはそういうもの。
それを変えるには、10年単位の時間が必要である。

 ……かなり眠くなってきたので、以前書いた原稿を探して、その結論とする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【権威主義と天下のバカ大臣】

+++++++++++++++++++++

ときどき講演に招かれる。
ていねいに迎えられる。
が、居心地があまりよくない。
窮屈。
そのときいつも、私はこう思う。
「私は、そんな人間ではないのだがなあ」と。 

が、もしそんな私でも、毎日、そんなふうに
扱われたら……。
やがて感覚が麻痺し、意識が逆転するかも
しれない。

+++++++++++++++++++++

●官僚主義国家

 今朝も中国の友人からメールが届いていた。
こうあった。
原発事故被災地についてのメールだったが、最後の一文が、グサリと胸に突き刺さった。

「China is a dictatorship country, even Japan is not a real democratic country. 」
「中国は独裁国家だが、日本も同じように、新の民主主義国家ではない」と。

 これについては、世界中の人たちが、異口同音にそう書いている。

(1)なぜ日本では、大規模なデモ(抗議行動)が起きないのか、と。

 答は簡単。
日本人は、江戸時代より「もの言わぬ従順な民」に作りあげられている。
それがまた教育の第一目標になっている。
「ものを言う民」は、官僚政治にとっては、まことにもって都合が悪い。
が、それが悲劇ではない。
本当の悲劇は、日本人自身がそれに気づいていないということ。
民主主義もどきの民主主義をもって、それが民主主義と思い込んでいる。

 このことは私自身が経験している。
1970年に、オーストラリアのメルボルン大学(法学院)に留学したときのこと。
どのテキストにも、「日本は官僚主義国家」と書いてあった。
「君主(ローヤル)官僚主義国家」と書いてあるのもあった。

 当時の私はそれに猛烈に反発した。
が、日本は世界に名だたる官僚主義国家だった。
それから40年以上。
今に到るまで、何も変わっていない。
日本は、官僚のための、官僚による、官僚の国。

 日本の中に住んでいると、それがわからない。
日本の外に住んでみると、それがわかる。
あるいは外の国の人には、それがわかる。
「日本は新の民主主義国家ではない!」と。

●天下のバカ大臣、M/R

 TBS−iは、つぎのように伝える。

++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++

M/R復興担当大臣が就任後初めて、3日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなか
ったことに腹を立て、知事を叱責しました。

 宮城県庁を訪れたM/R復興担当大臣。村井知事が出迎えなかったことで顔色が変わりま
す。

 「(村井知事が)先にいるのが筋だよな」(M/R復興相)

 笑顔で現れた村井知事、握手を求めますが、拒否。応接室が緊張します。そして要望書を受
け取ると、M/R大臣が語気を強めて自らの考えを伝えます。

 「(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。
お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。長幼の序がわかっている自衛
隊なら、そんなことやるぞ。しっかりやれよ。今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうそ
の社は終わりだから」(M/R復興相)

++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++

 問題点は4つある。

(1)村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責したこと。
(2)笑顔で現れた村井知事、握手を求めますが、拒否したこと。
(3)「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と言ったこと。
(4)「今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わりだから」と言ったこと。
ほかにも、「オレは九州の人間だから、東北の市が何県にあるか知らない」と言ったとも伝えら
れている。

 いろいろな大臣がいるが、(……いたが)、ここまで権威主義の凝り固まった大臣というもの
少ない。
まるで封建時代の殿様、そのもの。
「上下意識」が強く、「自分は偉い人間」と錯覚している。
はっきり言えば、バカげている。
つまりその錯覚意識があるかぎり、日本の民主主義は、完成しない。

 人は何をもって、「偉い」というか。
その前に「偉い」とは何か。
この日本では、地位が高く、肩書きが立派な人ほど、「偉い」という。
が、英語国には、「偉い」に相当する単語すらない。
あえて言えば、「respected」ということになる。
「尊敬される」という意味である。

 が、「尊敬される」というときには、地位や肩書きは関係ない。
いわんや日本流の上下意識は、ない。

M/Rは、大臣。
一方は、県知事。
M/Rは、無意識のうちにも(?)、上下判断をし、それに応じない相手を「無礼」と決めつけた。
まさに時代錯誤。
が、これは何もM/Rだけの問題ではない。

●権威主義

 権威主義と言えば、水戸黄門がある。
今でもテレビの人気番組になっている。
三つ葉葵の紋章をかかげ、「控えおろう」と一喝すれば、みなが、「ハハー」と言って頭をさげ
る。
日本人には、実に痛快なシーンということになる。
が、欧米人には、それが理解できない。
あるときオーストラリアの友人にこう聞かれた。

「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、どうなるのか?」と。

で、私が「水戸黄門は悪いことはしない」と答えると、まわりにいた学生たちまで、「それはおか
しい」と言って騒いだ。
オーストラリアでは、ときの権力者といかに戦ってきたかが、歴史になっている。
ウィリアム・ウォレス(イギリス)、ロビン・フッド(イギリス)、マッド・モーガン(オーストラリア)など
など。
そういう人たちが英雄になっている。

 つまりそれを支える権威主義者たちがいるから、こういうバカ大臣がいつまでものさばる。

 話は少し脱線するが、以前書いた原稿を紹介する。
「意識」を考える、ひとつのヒントになれば、うれしい。
「世にも不思議な留学記」より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●珍問答

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。
中には、「空手を教えてくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。
あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速150マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の
馬は、コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。
さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。
話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解したためとわかった。
カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」という意味である。

●忠臣蔵論

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、4、5人の学生が私を囲んで、こう
聞いた。
「忠臣蔵を説明してほしい」と。
いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこで浅野は逮捕、投獄、そして切腹。
ここまではわかる。
しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復讐をしたのか」と。

加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。
それに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府
に抗議すればよい。
また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボスに責任を追及し
ないのか、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸黄門に頭をさげるのか。
水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。
私が、「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと
えばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。
体中を鉄板でおおい、たった一人で、総督府の役人と戦った男である。
イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロー・スクールの一室で、みながお茶を飲んでいると
きのこと。
ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。
「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)とい
う制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。
そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされ
て、何が仕事か!」と叫んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶対にわからない。
が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰ってきてからのことであ
る。

●泣き崩れた母

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときす
でにM物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。
「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア〜」と。

だからといって、母を責めているわけではない。
母は母で、当時の常識に従って、そう言っただけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支
えてくれると思っていた。
が、その一言で、私はすっかり自信をなくし、それから30歳を過ぎるまで、私は、外の世界で
は、幼稚園の教師をしていることを隠した。
一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話したら話したで、みな、「どう
して?」と首をかしげてしまった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、オーストラリアの友人たちである。
みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と。その励ましがなかったら、今の私はなかっ
たと思う。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 意識のズレ 浅野内匠頭 吉良
上野介 忠臣蔵 意識論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原因は歴史教育

 意識は、当然のことながら、教育によって、作られる。
とくに「歴史」については、そうである。
今でも、「私の目標は、織田信長になること」(M県・県知事)と豪語してやまない人がいる。

 それについて書いた原稿ではないが、参考までに、以前書いた原稿を、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●織田信長

++++++++++++++++++++++++++

織田信長は、なぜ、消防自動車を呼ばなかったのか?
「織田信長は、家来の(宴会中)に殺された」では、なぜまちがっているのか?

++++++++++++++++++++++++++

●珍回答

 「織田信長は、本能寺で、なぜ消防自動車を呼ばなかったのか?」と聞いた、子どもがいたと
いう(某雑誌)。
子どもといっても、中学生(?)である。
年齢はわからないが、漢字をそこそこに使えるところをみると、それくらいの年齢である。

 一方、「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」と、歴史のテストで答えた子どどもいた。
こちらも、中学生(?)である。
年齢はわからないが、ともに小学校の高学年児かもしれない。
あるいはひょっとしたら、高校生かもしれない。
「高校生」とは名ばかり。
歴史の知識にかぎらず、その程度の常識しかない高校生は、いくらでもいる。

●バカげた歴史教育

 そこそこに歴史の知識のある人は、こうした子どもたちの疑問や、回答を笑う。
かれらがもっている常識でもよい。
その常識を笑う。
織田信長の時代には、消防自動車は、なかった。
また織田信長は、家来の(明智光秀)に殺された(=自害に追い込まれた)。

 が、ここで私は、ハタと考えてしまう。
私たち自身だって、一応常識的な人間と思っているが、その一方で、非常識な情報に、そのつ
ど振り回されている。

 織田信長にしても、日本では歴史上の人物となっている。
しかし(ほめたたえるべき人物)であったかどうかということになると、それはどうか?
見方をほんの少し変えると、織田信長は、ただの殺戮(さつりく)者。
それを本能寺で討ち殺した明智光秀も、これまたただの殺戮者。
(実際には、織田信長は本能寺で自害。)
言うなれば、本能寺での異変は、ただ単なる、殺戮劇!

 権力の座についたというだけで、この日本では、「歴史上の人物」ということになる。
名を残すことになる。
事件があった年まで、記録され、今になっても、子どもたちは、それを暗記させられる。
どうしてそんなことが必要なのか。
重要なのか。
さらに一歩、踏み込めば、このバカげた歴史教育に、なぜ、私たち日本人は、気がつかないの
か?

 たとえばあなたの近所で、親の遺産を取り合って殺人があったとする。
そうした殺人と、織田信長や明智光秀がした殺人と、どこがどうちがうというのか。
あなたはその(ちがい)を説明できるだろうか。

 「戦国時代の昔、いろいろな武将がいて、国を取り合った。
その中に、頭のおかしい武将もいて、家来に殺されることもあった」と。
その程度の知識で、じゅうぶんではないのか。
またどうしてそれではいけないのか。
年号を正確に言えたからといって、それがどうしたというのか?
必要であれば、そのつど、調べて、それを書けばよい。
ちなみに私は「本能寺の変」という言葉は知っているが、何年にそれが起きたか、知らない。

 大切なのは、中身。
今に残る、中身。
つまりなぜ私たちが歴史を学ぶかと言えば、過去の人たちのなした経験を、「今」に生かすた
め。
失敗でもよい。
そういうことをしないで、一方的に織田信長を美化するから、いまだに「国盗り物語」よろしく、
政治家の中には、権力闘争に明け暮れる人がいる。
またそういう人が、いつまでたっても、後を絶たない。

●大切なのは中身

 もし本能寺での異変が重要な歴史的事実であるとするなら、なぜそういう事件が起きたか。
その背景を教える。
そこに至る経緯を教える。
ついでに権力闘争の醜さや、無意味さを教える。
それが歴史教育だと、私は思う。

 だからテストの内容も、こう変えればよい。

【問】

 「織田信長という独裁者が、本能寺という寺で、家来の明智光秀という人に殺された。
なぜ、明智光秀は、織田信長を殺したか。またあなたはこうした権力闘争を、どう思うか」。

 ともかくも日本の歴史教育は、暗記一辺倒。
暗記に始まって、暗記に終わる。
この教育姿勢は、明治の昔からまったく、変わっていない。
ウソだと思うなら、大学の受験生たちがもっている歴史の参考書を見てみればよい。
センター試験の問題を見てみればよい。

 重箱の隅の、そのまた隅をほじくり返したような問題ばかり。
教える側も、それを教えるのが歴史教育と錯覚している。
教わる側も、それを暗記するのが歴史教育と錯覚している。

 ちなみにこうしたバカげた歴史教育をしているのは、この日本だけ。
欧米では、教師が生徒にテーマだけを与えて、そのテーマに沿ってレポートをまとめるのが、
歴史教育の(柱)になっている。

「あなたはトラガルファーの戦いについて、1年をかけて、調べなさい」
「あなたはフランス革命について、1年をかけて、調べなさい」(スペインの小学校)と。

 そして年度の終わりに、自分の勉強したことを、調べたことを、みなの前で発表する。
そういう教育を、小学生のときからしている。
小学生のときから、受けている。

●知識は無価値

 暗記ということになるなら、ついでに明智光秀のほかの家来たちの名前も暗記したらよい。
ついでにそれぞれが、どのような作業を分担したか、それも暗記したらよい。
本能寺にいた織田信長の家来たちの名前も、暗記したらよい。
本能寺の住所も暗記したらよい。

 が、今では、こうした知識は、インターネットを使えば瞬時に手にすることができる。
詳しい内容を知りたければ、パソコンを使って調べればよい。
大切なのは、その上で、どう考え、どう判断するか、である。
そしてそれをどう「今」に生かしていくかである。

 私たちもそろそろ気がつくべきときにきている。
「暗記は無価値」と。
暗記といっても、このばあい、暗記のための暗記を重ねるような暗記をいう。
地理にしても、無罪とは言えない。

 この話で思い出すのは、5、6年ほど前に、つぎのようなことを暗記していた中学生である。
その中学生は、こう復唱していた。
「長野の高原野菜、富山のチューリップ・・・」と。
そこで私がその中学生に、「高原野菜って何?」と聞くと、その中学生はあっさりと、こう答え
た。
「知らない・・・」と。

 で、私はこう言った。
「浜名湖のうなぎと、教科書には書いてあるけど、今ではうなぎを養殖している業者は、ほとん
どいないよ」と。

●新しい教育

 「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」でも、よいではないか。
そのとき本当に宴会をしていたのかもしれない。
ひょっとしたら織田信長の家来たちは宴会でもして、油断していたのかもしれない。
それをまちがっていると証明できる人は、だれもいない。
百歩譲って、どうして「明智光秀」という名前を、書かねばならないのか。
またどうしてそれが重要なことなのか。

 さらに百歩譲って、それが重要なことというのなら、それこそ重箱の底をほじくり返すような知
識を、生徒たちに暗記させたらよい。
暗記程度に応じて、成績をつけたらよい。
が、それは先にも書いたように、バカげている。
つまりこういうバカげた教育を教育と思い込んでいるから、その一方で、「なぜ消防自動車を呼
ばなかったのか?」という子どもが出てくる。
思考力そのものが欠落したような子どもである。

 が、これでは、いつまでたっても、日本人は変わらない。
進歩しない。
愚劣な失敗を、いつまでも繰り返す。

 たとえば私は、もう40年も前のことだが、北欧のどこかの国の首相が、議会まで自転車通勤
をしているのを知って、本当に驚いたことがある。
当時の常識(?)に凝り固まっていた私には、信じられないような話だった。
「首相が、自転車で通勤?」と。

 ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の
長官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった。

 悲しいことに、現在の日本は、まだその延長線上にある。
その責任の大きな部分は、日本のゆがんだ歴史教育にある。
・・・と言うのは書き過ぎかもしれない。
しかしそれくらいの緊張感をもって、この問題を考えないと、今の日本の歴史教育を変えること
はできない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の歴史教育 暗記教育 暗記のための暗記 ゆがんだ歴史教育 暗記教
育)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●首相が自転車通勤

 この原稿の中で、とくに注意してほしいのは、以下の部分。

「ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の長
官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった」。

 まともな人が見れば、狂っている。
その狂っていることが、当時は常識だった。
国名は忘れたが、当時すでに欧米では、首相といえども、みな自宅から自転車通勤をしていた
(北欧)。

 それが民主主義……というより、民主主義の「結果」。

●天下のバカ大臣

 こういうバカが、大臣になった。
大臣になって、東北の復興を手がけることになった。
いわく、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と。

 人間も謙虚さを忘れたら、おしまい。
「大臣」「大臣」とチヤホヤされるうちに、自分を見失ってしまった。
被災者たちの気持ちを忘れてしまった。
だいたい「我々は何もしないぞ」とは、何ごとか!

 報道の内容が事実とするなら、この一言で、大臣失格。
即刻管直人首相は、M/Rをクビにすべき。
それができないというのであれば、管直人首相自身が責任を取るべき。

 ……朝、起きてニュース・サイトをながめた。
久々に、私は怒った。
で、あえて持論を確認。
「偉い」を廃語にしよう!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【「偉い」を廃語にしよう】

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

 日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。
よく似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。
日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり
偉い人とは言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 天下のバカ大臣 偉い 日本の民主主義 官僚主義 はやし浩司 偉いを廃語
にしよう 復興担当大臣)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●眠い

 再び睡魔が襲ってきた。
 
 明日から仕事。
今夜は、舘山寺温泉にある、W温泉へ行くつもり。
外来で、1回、1000円で入浴できる。

明日から仕事。
それもあるから、ここらで気分を一新しなければならない。
2012/01/06夜記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 権威主義 水戸黄門 偉いを廃
語に 都会人の優越感 はやし浩司 田舎根性)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【幸福論】byはやし浩司

 私のBLOGに、コメントがついた。
コメントそのものは、珍しくない。
何かを書けば、かならずといってよいほど、コメントがつく。

しかしそのBLOGが、長い間、闘病生活をしている人の、何かの励ましになったらしい。
そういう内容のコメントだった。
うれしかった。
改めて、そのコメントのついたBLOGを、読みなおしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Joy & Happiness(2010年4月記)

++++++++++++++++++++++++

英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった※。

Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。

Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。
……とまあ、いろいろに解釈できる。

+++++++++++++++++++++++++

●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。
 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。

その第一が、健康。
その第二が、青春時代。

子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。
 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。
そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10−04−25)

(補記注※)
The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. 
J.D. Salinger

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月5日

●怪談

 私は、子どものころから怪談が苦手。
どこかでそういうトラウマを作ってしまったらしい。
もともと閉所恐怖症だったから、暗い所や、狭いところが嫌いだった。
が、よく覚えているのは、映画。

 当時、猫化け映画や怪談映画が、流行(はや)った。
その中に四谷怪談とか牡丹燈籠というのもあった。
播州皿屋敷というのもあった。

 そういう映画を見に行くと、決まって映画館の通路に、祭壇がもうけてあった。
その上に、線香がたいてあった。
私たち子どもは、それを見ただけで、震えた。
私が小学1〜3年生のころのことである。

●恐怖体験

 こうした恐怖体験は、子どものうちは、しないほうがよい。
今ではそれが常識だが、当時の日本には、まだそれがなかった。
子どもの心理がどうのこうのと、問題になるようなことはなかった。
おとなたちは、むしろ、そういうふうに子どもたちが怖がったりするのを、楽しんでいた。
映画館の中でも、私たちの恐怖心をあおりたてるようなことを、平気で言った。
「あれは本当の話だ」とか、何とか。

 そのこともあって、今でも、怪談が苦手。
日本の会談は、どこか湿っぽい。
あの湿っぽさが、苦手。
旅館に、古い行燈(あんどん)があったりするだけで、背筋に冷たいものを感ずる。

 ……実は、その古い行燈が、先日泊まった旅館の中にあった。
木製の、障子張りのものだった。
遠い昔、女性に化けた猫が、その行燈の油を、ペロペロとなめていた……。
ゾーッ!

●女たらし

 ほかにも、苦手なものがいくつかある。
その第一が、女性。
私は、団塊の世代がみなそうであったように、中学に入るまで、女の子と遊んだ経験がない。
女の子と遊んでいると、「女たらし」と言って、馬鹿にされた。
……というか、女の子と遊んでいる男を、「女たらし」と言って、馬鹿にした。

 女の子と遊ぶことは、悪いこと。
そう思っていた。

●腕白ボーイズ

 だからいまだに、女性が苦手。
ついでに言えば、女の子を教えるのも苦手。
どうしても一歩、退いてしまう。
距離を置いてしまう。

 半面、私がそうだったということもあって、腕白ボーイズが得意。
そういう子どもたちを相手に、ワイワイやっていると、そのまま私の子ども時代に、そのままタイ
ムスリップしてしまう。

●傷

 このように人間の心というのは、その成長過程で、雑音のように作られていく。
「雑音」というのもおかしな言い方だが、それに近い。
種々雑多なことが、無秩序に積み重なって、心はできていく。
その途中で、「傷つく」ということも、ある。
が、傷つくことを恐れてはいけない。
だれしも傷まるけになりながら、おとなになっていく。
(もちろん傷にも、程度の差というものがあるが……。)

●ひ弱な子ども

 で、最近よくこんなことを考える。
今の若い母親たちは、神経質すぎる、と。
「もう少し、乱暴に育ててもいいのではないか」と思うときも、多い。
こうした傾向は、学校教育の場でも、みられる。

 このあたりの小中学校でも、子どもが学校で怪我をしたりすると、かならず病院へ連れていく
ことになっている。
とくに首から上の事故のばあいは、教師が診断書をもって、家庭訪問をすることになっている。
「そこまでするのですか?」と聞くと、「そこまでします」と。
ある小学校の校長が、そう教えてくれた。

 怪我の程度にもよるが、子どもというより、「子ども様々」。
こういう環境の中で、子どもはますますひ弱になっていく。
日本国内では、それでよいとしても、日本から一歩外に出れば、通用しない。
こんなニュースが、先週、どこかのサイトに載っていた。
記憶によるものなので、内容は不正確。

●強行着陸

 どこかの国の飛行機が、中国のある空港に着陸しようとした。
が、濃霧か何かで、その空港に着陸できなかった。
そこで50キロ離れた、別の空港に着陸しようとした。
残りの燃料は、10分を切っていた。

 そこへ中国国内の航空会社の飛行機が接近してきた。
「私のほうが先」と。
そこでそのどこかの国の飛行機は、上空で待機した。
が、燃料がいよいよ5分を切った。
そこで再度、「先に着陸させてほしい」と連絡したら、中国の飛行機の機長はこう言ったという。
「こちらは4分しかない。だから先に着陸する」と。

 そこで先に、中国の飛行機が着陸し、つづいてどこかの国の飛行機が着陸した。
どこかの国の飛行機は、燃料切れ寸前だった。
しかもギリギリの強行着陸。
あわや衝突事故……というような、ギリギリの強行着陸だった……という。

 が、ここからが実に中国らしい話。
あまりにも中国的!

 着陸したあと、中国の飛行機の燃料を調べたら、1時間分も残っていたという。
つまり中国の飛行機の機長は、ウソを言っていた。

 この先、すでに現在がそうだが、私たち日本人は、こうした連中を相手に商売をしていかね
ばならない。
今の日本の子どもたちに、その野生臭があるか?
(以上、記憶による話なので、内容は不正確。

●記憶錯誤

 ここで脱線。

 この事件について、調べてみた。
あちこちを検索したら、いろいろわかった。

 事件は2011年の08月28日に起きた。
ここに書いた「どこかの国」というのは、「カタール」のことだった。
また中国機(吉航空機)を操縦していたのは、韓国人のパイロット。
なお管制官にこうした虚偽の報告をしたり、支持に従わなかったばあい、パイロットは死刑にな
る可能性もあるという。

 記憶というのは、こういうものかもしれない。
ストーリーは覚えているが、枝葉の部分は、すべて消えてなくなる。
記憶錯誤が起きる。
それはともかくも、さて本題。

●「好きな子どうし並んでいい」

 日本を一歩、外に出れば、そこは野獣うごめく海千山千の世界。
食うか食われるか。
中国には、こんな格言すらあるという。
『だまされる前に、だませ。だまされたほうが、バカ』と。
きれいごとだけでは、生きていくことすらむずかしい。

 今の若い母親たちには、そういう現実が、まったくわかっていない。
それこそ先生に、子どもがプリントで頭を叩かれただけで、「そら、体罰!」と言って騒ぐ。
これも本当にあった事件だが、こんなことがあった。

 ある学校で、先生が子どもたち(小1児)の席決めをすることになった。
そのとき先生が、こう言った。
「好きな子どうしで並んでいい」と。
が、この言葉に1人の母親が、猛反発。
こう言ったという。
「うちの子のように、友だちがいない子どもは、どうしたらいいのか。そういう子どもに対する配
慮に欠ける行為。許せない!」と。
校長室にまで怒鳴り込んでいって、「あんな教師、やめさせろ!」とまで言ったという。

(この事件について書いた原稿があるはず。
記憶を正すため、探してみる。)

●訂正

 1999年ごろに書いた原稿が見つかった。
そのまま紹介する。

『ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。
「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小2男
児)のように友だちがいない子どもはどうすればいいのか。
そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議に行くので、あなたも一緒
に来てほしい」と』(1999年ごろに書いた原稿)と。

 ここでも記憶錯誤が起きている。
先に「小1男児」と書いたのはまちがいで、正しくは「小2男児」。
「校長室まで怒鳴り込んでいった」というのは、私の憶測。
が、そのときの雰囲気はよく覚えている。
その母親とは、道路でバッタリと会った。
「先生!」と声をかけられたから、振り向くと、その母親がそこに立っていた。
そこで、その話になった。
「これから学校へ抗議に行く。先生も(=私も)、いっしょに来てほしい」と。
ものすごい剣幕だった。

 そのときの原稿を読みながら、今、こう思う。

「小1の子どもではなく、小2の子どもだったのかあ……」と。
私はそのときの雰囲気で、「校長室へ怒鳴り込んでいく母親」を想像した。
だから今、記憶の中では、そうなっている。

 ついでに、そのとき書いた原稿を、全文、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、しかしそれが度を超すと、過関心になる。
こんなことがあった。

ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。
「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小2男
児)のように友だちがいない子どもはどうすればいいのか。
そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。
これから学校へ抗議に行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでなくても、神経質になる親はいくらでもいる。
「進学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼる」と言った母親もいたし、「子
どものテスト週間になると、お粥しかのどを通らない」と言った母親もいた。
しかし過関心は子どもの心をつぶす。
が、それだけではすまない。
母親の心をも狂わす。

 子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。
症状としては、ささいなことで極度の不安状態になったり、あるいは激怒しやすくなるのほか、
つぎのようなものがある。
(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡りする、
(2)ものごとを悲観的に考え、日常生活がつまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、不眠を
訴えたり、注意力が散漫になったりする、
(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、
(5)他人との接触を避けたりするようになる、など。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。
子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。
 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自身がそれに気づくことは、まずない。
気づけば気づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは本当にむずかしい。
『汝自身を知れ』と言ったのはターレス(古代ギリシアの七賢人の一人)だが、哲学の世界で
も、「自分を知ること」が究極の目的になっている。

で、このタイプの親は明けても暮れても、考えるのは子どものことばかり。
子育てそのものにすべての人生をかけてしまう。
たまに子どものできがよかったりすると、さらにそれに拍車がかかる。
いや、その親はそれでよいのかもしれないが、そのためまわりの人たちまでその緊張感に巻
き込まれ、ピリピリしてしまう。
学校の先生にしても、一番かかわりたくないのが、このタイプの親かもしれない。

 あなたがここでいう過関心ママなら、母親ではなく、妻でもなく、女性でもなく、一人の人間とし
て、生きがいを子育て以外に求める。
ある母親は、娘が小学校へ入学すると同時に手芸の店を開いた。
また別の母親は、医療事務の講師をするようになった。
そういう形で、つまり子育て以外のところで、自分を燃焼させる場をつくり、その結果として子育
てから遠ざかる。

●ターレス

 ハハハ、ここでまた記憶錯誤!

 先の原稿の中で、「ターレス」という名前を書いた。
が、「キロン」ではなかったのか。
それについて書いた原稿も見つかった。
日付は2009年6月になっている。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『汝自身を知れ』(Know Yourself)
古代ギリシャの7賢人、アポロン神殿)

++++++++++++++++++++++

おととい講演をしているとき、『汝自身を知れ』という
言葉の話をした。
しかしその場で、それがだれの言葉あるかを忘れて
しまった。
ショックだった。
あれほどまでに有名な言葉の作者を忘れてしまうとは!

スパルタのキロンだったのか?
それともギリシャのターレスだったのか?
スパルタだったのか、それともギリシャだったのか?

ソクラテスはその言葉に、電撃的な衝撃を受け、哲学
の本質を知った。

++++++++++++++++++++++

●ターレス

 私は『汝自身を知れ』というのは、長い間、スパルタのキロンの言葉と思っていた。
あちこちの原稿に、そう書いた。
が、あるとき、掲示板にそのまちがい(?)が指摘されていた。
「キロンではなく、ターレスだ」と。

 そのとき書いた原稿をさがしてみる。
が、便利になったものだ。
いちいち自分の原稿を開かなくても、ヤフーの検索を使えば、即時にそれができる。
検索窓に、「はやし浩司 汝自身を」と記入して、(検索)ボタンをクリックすればよい。

 で、わかったことは、『汝自身を知れ』とは、ギリシャのアポロン神殿に刻まれている、
七賢者の一人、ターレスの格言ということがわかった。

 しかもターレスというのは、『古代ギリシア世界には7人の卓越した賢者がいたといわれる
が、その7人が誰であるのかについては諸説あり統一的な見解は得られていない。
古代ギリシアの7賢人として一般的に知られている人物は、ターレス(タレス)、ソロン、ペリアン
ドロス、ビアス、ピッタコス、クレオブゥロス、ケイロンである』。

『ターレス(B.C.624−546)は、名門出身だったので、初め政治家としての
道を志すが、その後天文学など自然学の研究に熱意を燃やし、万物の根源(アルケー)
を探求する自然哲学の祖としての思索を行った』(以上、『』内、Biglobe・HP
より、転載)。

 キロンではなく、ターレスだった。
思い出した!
それにターレスというのは、古代ギリシャの7賢人の1人。
スパルタ、ではない。

 で、こうした記憶というのは、しっかりと上書きしておかねばならない。
また時間がたつと、その下の記憶が表に出てきてしまう。
記憶が混乱してしまう。

 古代ギリシャの7賢人の1人、ターレスが、ギリシャのアポロン神殿に残した言葉。
それが結論ということになる。
が、不安が残る。
このところ自分の脳みそが信用できなくなった。
こういうときは、どうするか?
どうすれば、記憶として、脳みその中に残すことができるか?
ウ〜〜ン……。
高校の受験生のように、クソ暗記するしかない。
キーワードは、「古代ギリシャ」「アポロン神殿」「ターレス」である。
どれもよく知っている言葉だが、どうかすると、ポンとそれらの言葉を思い出せなくなってしま
う。
脳みその老化が進むと、そういう現象はよく起きるという。
「ド忘れ」ともいう。
これから先、そういうことが多くなるだろう。
心して、脳みその中に叩き込もう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)

(こうして(↑)、検索ワードを書き加えておけば、ヤフーもしくは、グーグルでの検索
ができるようになる。
すでに多くの人もしていると思うが、私がオリジナルに考えた方法である。)

 またこういうことも言える。
私はすでに、この5年間だけでも、3万ページ以上(40x36字)の原稿を書いた。
が、2600年後に残る言葉など、一行もないだろう。
しかしたーレスは、アポロン神殿に、『汝自身を知れ』という言葉を残した。
たったの一言である。
しかしその一言が、2600年を経た今、哲学の(柱)になっている。
すごいことと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)

●01月05日

 話が「怪談」から、「私の子どものころ」。
そしてさらに「ひ弱な子ども」から「記憶」へと脱線してしまった。
最後は「親の過関心」から「ターレス」。
脱線につづく脱線。

 ここまで読んでくれた人に感謝しながら、今朝はここまで。
今朝の私の脳みそは、ここに書いたエッセーのように、バラバラ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の過関心 はやし浩司 過関
心)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【拡大する、貧富の差】

●マグロ1匹、5649万円!

 まず、ブルームバークの記事より。
マグロ1匹が、5649万円で、競(せ)り落とされた、とか!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

1月5日(ブルームバーグ):
東京・築地の中央卸売市場では5日朝の初競りで、青森県大間産の269キログラムのクロマ
グロが1本5649万円で競り落とされた。
1キログラム換算では21万円となる。
落札した寿司チェーン店「すしざんまい」を経営する喜代村の広報担当、梅原裕史氏が明らか
にした。
 
マグロを競りに出した東都水産や、中央卸売市場ウェブサイト情報によると、記録のある近年
の初競りの最高値は昨年の3249万円(北海道戸井産、342キロ)。 
喜代村では、今回のマグロ1本をにぎり寿司にした場合、1万貫余りになるだろうとみている。
(以上、Bloomberg記事より) 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●計算

 どうも計算が合わない。
1匹が、5649万円。
キロ当たり、21万円。
このマグロで、1万貫の寿司が握れるという(Bloomberg)。
ということは、1貫につき、5649円。
わかりやすく言えば、寿司1個が、5649円。
しかもそれが原価。

 記事のまちがいではないのか。

 念のため、今度は、キロ当たりで計算してみる。
1キロで、21万円。
100グラムで、2・1万円。
10グラムで、2100円。
1グラムで、210円。
一円玉の重さのマグロが、210円!

 回転寿司屋で出される、薄い切手のようなマグロでも、5グラムはある。
ということは、1貫で1050円!
仮に1貫が5グラムとすると、269キロのマグロなら、269000(グラム)÷5で、5万3800貫
ということになる。
つまり約5万4000貫の寿司が握れる。
が、それを1貫100円で売ったとしても、売り上げは、約540万円。
やはり1貫を1000円前後で売らなければ、採算は合わないということになる。

 ……こうして四方八方から計算してみるが、私にはどうしても理解できない。
計算が合わない。
どうなっているのか。
私の計算によれば、超高級料亭で、1貫、1万円程度で売らなければならない。
しかしそんな寿司を食べる人はいるのだろうか。

●貧富の差

 「不況、不況と言いますがね、1泊1名、10万円という旅館に泊まる人もいますよ」と。
(夫婦2人で、20万円!)

 岐阜県の下呂市(下呂温泉郷)に住む知人が、そう言った。
そういう客なら、1貫1万円のマグロ寿司を口にできるかもしれない。
で、そういう客は、例外的な客かと思ったが、実際には、そうでもないようだ。
「1泊9000円前後の宿に泊まる客と、1泊10万円以上の宿に泊まる客との、2極化が進んで
います」とも。

 これを貧富の差と言わずして、何という?

●バブル経済

 温泉街は、日本経済の縮図。
ときどきそう思う。
見た目には、超高級旅館。
しかし中は、それなりにボロボロ。
ちょうどバブル経済のころのこと。
こうした超高級旅館が、まるで雨後の竹の子のように、あちこちで建築された。

 そういった旅館が、今、大不況のドン底で、あえいでいる。
バブル経済が破たんして、22年※。
「それなりにボロボロ」というのは、どの旅館も、22年程度の月日を感じさせる。

(注※『日本の景気動向指数で見る景気循環における第11循環の拡大期にあたる。指標の
取りかたにもよるが、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指す
のが通説である』(ウィキペディア百科事典、「日本のバブル景気について」))。

 そこで今、都会の資本が、こうした倒産寸前のホテルや旅館を、買い占め始めている。
丸ごと買い取るわけだが、その価格は、「驚くほど、安い」とのこと。
で、その結果生まれたのが、1泊8000〜9000円前後の格安旅館。

●日本経済の象徴

料理は、バイキング方式。
布団敷きは、セルフ。
昔風のサービスは、ほとんどない。
仲居さんといっても、人材派遣会社から派遣された、言うなればパート。
旅館のことは、何も知らない。

 つまりこれが現代の日本経済を、そのまま象徴している。
わかりやすく復習すると、こうなる。

(1)バブル経済のころ、豪華な旅館がつぎつぎと、建った。
(2)バブル経済が、崩壊した。
(3)旅館業は大不況の時代へと突入した。
(4)温泉街は、真冬の時代を迎えた。
(5)倒産も相次いだ。
(6)大手資本が、そういった旅館を買いたたいた。
(7)内装をしなおし、安い旅館として再生した。

 どうであるにせよ、日本は22年前に、時計の針を止めてしまった。
どこの旅館街も、またそこにある旅館も、22年前のまま。

●利得権

 そのはざまにあって、貧富の差は、急拡大している。
それもそのはず。
これだけ市中に現金をばらまけば、こうなるのは、わかりきったこと。
利得権や資格、保護に守られた企業や団体、個人は、こういう不況下にあっても、私が世の春
を謳歌している。
公務員もその中に含まれる。
(今朝のニュースによれば、公務員のばあい、父母、孫にまで遺族年金が支払われているとい
う(MSN)。
配偶者に支払われているという話は聞いていたが、父母や孫にまで、という話は知らなかっ
た。
これは余談。)

 こうした貧富の差を測るバロメーターとして、「ジニ指数」というのがある。
「ジニ係数」ともいう。
そのジニ指数について書いた、私の原稿をさがしてみる。
「豊かさとは何か」という原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【豊かさとは何か】

●相対的貧困層 

+++++++++++++

貧困かどうかということは、
相対的な満足度によって決まる。

家と車と家電製品をもっていても、
貧しい人は、貧しい。

その日、その日を生きていくだけで、
精一杯という人も、少なくない。

そこで最近では、国の豊かさを
測る尺度として、「相対的貧困率」
という言葉を使う。

+++++++++++++

 生活の豊かさは、「モノ」では決まらない。
いくら家と車と家電製品をもっていても、貧しい人は、貧しい。
その日、その日を生きていくだけで、精一杯という人も少なくない。

 そこで最近では、国の豊かさを測る尺度として、「相対的貧困率」という言葉を使う。
わかりやすく言えば、生活に対する満足度ということになる。

 それによれば、

 メキシコ  ……20・3(満足度が、もっとも低い)
 アメリカ  ……17・1
 トルコ   ……15・9
 アイルランド……15・4
 【日本】  ……15・3
 ポルトガル ……13・7
    ……
    ……
スウェーデン…… 5・3
チェコ   …… 4・3
デンマーク …… 4・3、だ、そうだ。

(OECD24か国平均……10・4)(2005年)

 日本は相対的貧困率でみるかぎり、貧しい国としては、上位5位ということになる。
実際、「ワーキングプア」という言葉があることからもわかるように、この日本には、「働いても、
働いても楽になれない」という人たちが、「全体の4分の1、400万世帯もある」(朝日新聞「キ
ーワード」)そうだ。

 これらの人たちは、最低賃金や、生活保護以下の収入しか得られない人たちという。
つまりその分だけ、所得格差が進んでいる。
ジニ係数(ジニ指数ともいう)でみても、日本は、OECD25か国中、第10位ということになって
いる。
ジニ係数は、所得のかたよりを測る、「かたより指数」と考えてよい。

 たとえば高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3の人たち
が、残った4分の1の所得を分けあう状態で、ジニ係数は、0・5となる。
日本は、0・314(2005年)である。

 ……そういう意味では、この日本は、たしかに住みにくい国になりつつある。
何をするにも、お金がかかる。どこへ行っても、お金がついて回る。
まさに、マネー、マネー、マネーの国。
お金がないと、それこそ、身動きができない。

 そこで知恵をしぼって、たとえば休日でも、できるだけお金を使わないですまそうとする。
お弁当を用意して、無料の公園を散策したり、山歩きをしたりする。
が、それでもお金がかかる。
どういうわけだか、かかる。
そういうしくみが、できあがってしまっている。

 言いかえると、お金を使わないですまそうと思ったら、家の中で、ゴロゴロしているしかない。
しかしそういう生活を、だれも、豊かな生活とは言わない。
つまり今、日本人の多くが感じている貧困感は、そういうところから生まれている(?)。

 では、どうすれば、豊かに生きられるのか? 
「豊か」というより、「心豊か」と言いかえたほうがよい。

 私なりの実践法を並べてみる。

(1)家族が円満であること。
これは心豊かに生きるための、第一条件。
(2)みなが、健康であること。
これも心豊かに生きるための、第一条件。
かりにだれかが病気であっても、それを前向きに受け入れてしまう。
(3)収入の範囲で、ほどほどの生活をする。
できれば、常に最低限の生活を心がける。
(4)価値観を、(お金)から、(心)と(知恵)に移す。心の豊かさ、知恵の豊かさをもって、「豊
か」と判断する。
(5)「私は私」という生き方を貫く。
世間体、見栄、体裁は無視。冠婚葬祭を含めて、儀礼を廃する。
つまり自分と他人を比較しない。

 私はとくに(4)が大切だと思う。
心や知恵は、みがけばみがくほど、そうでない人が、そうでなく見えてくる。
他人に対して優越感をもつことは、好ましいことではないが、しかしそのうち、愚かな人たちを
相手にしなくなる。
「私は私」という生きざまを貫きやすくなる。

 ……ともかくも、相対的貧困率が高いということは、けっして望ましいことではない。
社会がそれだけ不安定化することになる。
また国の豊かさというのは、いかに弱者にやさしいかで決まる。
弱者にきびしい国というのは、それだけ未熟な国ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ジニ指数は以下のようにして、計算する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

**********以下、日本共産党のHPより***********

《ジニ係数の算出方法》

 ジニ係数の算出方法は、次の手順をふんで計算します。

 (1)対象となる集団に含まれるすべての数値間の差の絶対値を合計して、平均する(これを
「平均差」という)。

 (2)全体の平均値を計算する。

 (3)平均差を全体の平均値の2倍で割る(2倍で割るのは、ジニ係数を0と1の間に収めるた
め)。この結果がジニ係数です。

 たとえば(245万円、362万円、826万円)のジニ係数は次のようになります。
 (1)(|245−362|+|245−826|+|362−245|+|362−826|+|826−
245|+|826−362|)/6
=2324/6=387.3(平均差)

 (2)(245+362+826)/3=1433/3=477.7(平均値)

 (3)387.3/(2×477.7)=0.4054

 よって、ジニ係数は、0.4054
 
(注・| |は絶対値記号)

**********以上、日本共産党のHPより***********

●ジニ指数(係数)、0・5

 中国のジニ係数も、0・5を超えているのではないかと言われている。
先にも書いたように、0・5というのは、おおざっぱに言えば、高所得者の4分の1の世帯が、全
所得の4分の3を占めることを意味する。
残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 たとえば10世帯の人が、1億円を稼いだとする。
ジニ係数0・5の社会では、2・5人が、7500万円を自分のものにする。
平均所得は、3000万円となる。
残りの2500万円を、7・5人の人が分け合う。
平均所得は、333万円となる。
3000万円と333万円。
その格差は、約10倍となる。

 つまりジニ係数が0・5を超えるほどになると、不公平感が増大し、社会そのものが、不安定
化する。
今の日本もあぶないが、中国は、もっとあぶない。
つまりこのジニ係数には、ひとつの盲点がある。

●ジニ係数の盲点

 ウィキペディア百科事典は、こんな例をあげている。
そのまま紹介させてもらう。

『……例えば、ある高級住宅地に年収10億円の人が99人、年収1兆円の大富豪が1人いると
する。
そこでこの高級住宅地に住む100人を対象にジニ係数を計算すると約0.91となり、非常に格
差が大きいが、年収10億円でもかなりの高収入であり、この状態が悪いとは一概に言えな
い』と。

 つまり日本でいう「0・5」と、中国でいう「0・5」には、本質的なちがいがある。
不平等は不平等だが、年収333万円でも、何とかそれなりの生活を維持することができる。
年収3000万円の人を、ときに「うらやましい」と思うことはあるが、「まあ、そんなものかな」と、
たいていは黙って見過ごすことができる。

 しかし中国のような発展途上にある国では、そうでない。
1人当たりの国民所得が全体的に低い国では、不平等感は相乗的に大きくなる。
今日の食費もままならない家庭が大半を占める一方で、外国製の大型車を乗り回す家庭が、
その隣にある。

 中国政府がもっとも恐れている部分は、実はここにある。
アキレス腱といってもよい。
不公平感が、いつその矛先を中国共産党に向けてくるか。
ハラハラドキドキ!
あの天安門事件にしても、その不公平感が引き金となったことは、よく知られている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●伊勢海老とイカ

 最近、私はこう思う。
この正月に、伊勢海老なるものを食べた。
(それだけでもありがたいことだが……。)
が、おいしいかったかというと、そうは思わなかった。
量も少なかった。
ただ自分にこう言って聞かせて、食べた。
「これは超高級食材だぞ」と。

 ところが、である。
同時に出されたイカ刺身のほうが、ずっとおいしかった。
味に甘味もあった。
で、こう思った。
「蟹や海老より、イカのほうが、本当はおいしいのではないか」と。

 蟹や海老は、稀少食材。
イカは、今のところ、まだふんだんに取れる。
だから値段も安い。
安いから、「おいしくない」という先入観が働いてしまう。

 つまり「貧富の差も、これに似ている」と。

●心の満足度

 だからといって貧富の差を放置しておいてよいというのではない。
深刻な社会問題である。
しかし「豊かさ」というのは、もっと別の尺度で測定されるべきもの。
「心の満足度」となると、さらにそうである。

 伊勢海老を食べたから、リッチということにはならない。
イカを食べたから、プアということにもならない。
おいしいものは、おいしい。
そうでないものは、そうでない。
いくら高級食材であっても、そうでないものは、そうでない。

 1泊10万円の宿に泊まったからといって、それで満足感が得られるというものではない。
(これはたぶんに、私のひがみによるものだが……。)
1泊8000円の旅館でも、楽しみ方によっては、じゅうぶん、楽しめる。
要は、心の持ち方。
それで決まる。

●マグロ

 で、最初の話に戻る。

 1貫1万円の寿司があったとする。
食べられる人は、それを食べればよい。
が、食べられないからといって、どうということはない。
が、1口、1万円というのは、常識で考えても、狂っている。
マグロ1匹が、5000万円というのは、もっと狂っている。
たかが魚1匹が、5000万円だぞ!

 こんなバカげたことのために、世界経済があるなら、世界経済などクソ食らえ!
もてる者が、「さらに……」と欲張るから、こういうバカげたことが起きる。
が、もてる者が、「私はこれくらいでいいです」と遠慮すれば、こういうバカげたことは起きない。

 ……たいへん残念なことに、今、その貧富の差が、この日本で急拡大している。
恐ろしいほどの勢いで、急拡大している。
同時に、庶民のもつ不公平感も、限界に近づきつつある。
そのひとつが、マグロ。
庶民感覚からすれば、ボッタクリもいいところ。

 1匹5000万円と聞いて、腹立たしく思う人がふえている。
1貫1万円の寿司と聞いて、腹立たしく思う人がふえている。
私もその1人だが、それはけっしてそれを口にすることができない者のひがみではない。
またそうとらえてもらっては、困る。

 「狂っている」という意味で、腹立たしく思う。
一貫、1万円のマグロをパクパク、食べている人がいる。
回転寿司で、2貫、100円のマグロを食べている人もいる。
これが日本の、今の現実ということになる。
ブルームバーグのニュースを読んで、そんなことを考えた。

さて、あなたはどう思うだろうか。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 貧富の差 ジニ係数 ジニ指数 はやし浩司 まぐろ マグロ 1貫1万円)
はやし浩司 2010−01−07記


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【西浦温泉・たつき別館、葵(旅館)へ】(はやし浩司 2012−01−03)

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●01月03日、火曜日

 ただ今、車の中。
JR浜松駅から、愛知県蒲郡(がまごおり)まで。
そこから名鉄電車に乗り換え、西浦まで。
JR浜松駅から、1時間ほど。

 今日はその中にある、『葵』という旅館に一泊。
案内書では、『たつき別館・葵』となっている。
1日1組限定という、ペントハウス(特別室)に泊まる。

西浦温泉は、ほぼすべての旅館を回った。
今回は、その中の、『葵』。
とくに理由はないが、「露天風呂付きに部屋」という文句に、
引かれた。

●義兄の訪問

 先ほど、義兄が年始のあいさつに来てくれた。
ちょうど出かけるところで、簡単な会話しかできなかった。
……ゆっくりと話をしたかった。

今度の日曜日に、山荘で食事をいっしょに楽しむことにした。
「一席、もうけますから」と言うと、喜んで、それに応じてくれた。
今朝は、それで失礼した。

 玄関先へ出たときには、朝の運動がちょうど終わったとき。
汗をぬぐいながら、「これから西浦温泉へ行ってきます」と言うと、「いいねエ〜」と。

●家を出る

 「家を出る」ということは、とても大切なこと。
「出る」だけでも、刺激になる。
けっして家の中に引っ込んでいてはいけない。
ボケる。
うつ病になる。

「50代では、年50泊、60代では、年60泊……」を目標にする。
あくまでも「目標」だが、60泊というと、週1泊以上ということになる。
が、幸運なことに、私にとっては、それほど無理な回数ではない。
どこかへ講演に行くときは、講演先のどこかに、かならず一泊するようにしている。
それがだいたい、週1回ほどになる。

ともあれ、これはあくまでも努力目標。
しかしそれくらいの目標を立てないと、どうしてもダラけてしまう。
ジジ臭くなってしまう。

●G神社

 JR浜松駅へ向かう途中、G神社の前を通る。
境内に、車が一列になって並んでいるのが見えた。
「車の初詣」!
私たちはそう呼んでいる。
(正確には、「車のお祓い」というのだそうだ。)
一列に並んだ車の前を、神主らしき男性が、何やらお祓いをしながら歩いていた。

 が、こんな調査結果を何かの本で、読んだことがある。

 そうした「車の初詣」をしたからといって、事故率が下がるわけではない。
お祓いをしてもらった車も、そうでない車も、事故になる確率は同じ。
理由がある。

●迷信

 その前に……。
私たちは、こうした迷信とは、まったく無縁の世界に生きている。
若いころから、そうだった。

私は、こうした宗教的行為を、「迷信」と断言する。
が、そう断言するには、勇気が必要。
「迷信」と断言するということは、そういった「力」との決別を意味する。
私たちだけで、生きていかねばならない。
だれも助けてくれない。
万が一のときも、だれにもすがれない。

 が、今はちがう。
64歳にもなって、何かに遠慮してものを書くのも、いやになった。
だから「迷信」と断言する。
はっきり、断言する。

 冷静に考えてみれば、わかるはず。
運転する「人間」に、お祓いをするなら、まだ理解できる。
金属でできた車に、お祓いをして、どうなる?
神社にしても、最初から断ったらよい。
いくら信者が「やってくれ」と願ったとしても、断ったらよい。
「車には、できません」と。

 また「お祓いをしてもらったから、安全」と思ってはいけない。
そう思うことによって、かえって油断が生まれる。
反対に「私たちを守ってくれるものは、何もない」と思うのも、悪くない。
そう思うことによって、運転が慎重になる。
どちらであるにせよ、事故になる確率は同じ。

詳しい調査をしたら、ひょっとしたら、「車の初詣」をした車のほうが、事故率が高いという結果
が出るかもしれない。

●生き様

 ならば人生の途中で、そうした迷信を捨てることができるかというと、それはできない。
迷信が、生き様の基盤になってしまう。
そういう人たちは、捨てたとたん、不安になる。
車について言えば、不安で、運転もできなくなる。
だから一度依存したら最後、死ぬまで依存するしかない。
宗教いうのは、そういうもの。

 もしどうしても……、ということであれば、生き様そのものを変えなければならない。
「依存」から「自由」へ。
「自由」というのは、「自らに由(よ)る」という意味である。
それまで「依存」で生きてきた人が、ある日を境に「自由」に生きるなどということはできない。

●功徳(くどく)

 こんな調査結果もある。

 「金持ちになれる」をキャッチフレーズに、戦後、勢力を拡大した宗教団体があった。
「この信仰をすれば、庭の枯れ木に、札束の花が咲く」と。

 が、実際に調査してみると、その宗教団体の信者のほうが、貧しい人が多かったという。
それについては、2つの考え方ができる。
ひとつは、もともと貧しい人たちが多かったということ。
もうひとつは、彼らが言うところの「功徳(くどく)」などというものは、もとからなかったということ。

今では、日本人全体が金権教の信者のようなもの。
欲得のかたまりのようなものだから、功徳(=信仰によって得られる利益)を、金権に換算する
人は少なくない。
もとから宗教に対する、心構えがズレている。

金権を求めるために、信仰をしてはいけない。
またそんなことに「力」を貸す神や仏がいるとするなら、それこそ、その神や仏は、エセ。
ニセモノ。
そんな神や仏は、相手にしてはいけない。

 私が釈迦なら、こう言うだろう。

『バラモンよ、拝んで金が儲かると思ってはいけない。
拝んで権力が手に入ると思ってはいけない。
拝むなら自分の心に拝め。
蔵の財より、心の財。
それを求めよ』と。

●JR浜松駅

 正月の3日。
JR浜松駅は、混んでいた。
電車の中も混んでいた。
途中から席に座れたが、豊橋の、2、3駅手前でのこと。
「やはり車で来るべきだった……」と、ふと、心の中でそう思った。

●JR蒲郡(がまごおり)

 蒲郡(がまごおり)に、着いた。
が、ここで問題、発生。
時計を見ると、午後1時30分。
このまま行けば、旅館へは、午後3時前に着いてしまう。
案内書には、「チェックイン可能時間、15:00〜」とある。

 「どうしようか?」と聞くと、ワイフは「水族館でも見てこようか」と。
が、外は寒々とした冬の景色。
蒲郡には、その水族館がある。
「西浦の駅で、時間をつぶそう」と私。
「そうね」とワイフ。

●西浦

 西浦へは、午後2時、少し前に着いた。
宿へ電話をすれば、迎えに来てもらえるはず。
「どうしようか?」と、またワイフ。
「早く行って、ロビーで待とう」と、私。

●歩く

 私たちはしばらく歩くことにした。
駅前で子ども連れの男性に道を聞くと、「この先、『力寿司』という寿司屋があるから、そこを右
へまっすぐ行けばいいよ」と。

 私たちは教えられたとおりに、歩き始めた。

 ……西浦の町は、いつ来ても、元気がない。
多くの店は、正月なのか、それともふだんからそうなのかは知らないが、みな、シャッターを下
ろしていた。
私たちは、寿司屋の前を右に折れると、そのまま西浦温泉のほうに向かって歩き出した。

●八王子神社

 途中、左手に立派な社(やしろ)が見えてきた。
場違いなほど立派な、社だった。
私たちはその神社にひきつけられるように、境内へと入っていった。

「八王子神社」と、大きく石碑に彫り込んであった。
私とワイフは、石段を上り始めた。
何度も「立派な神社だね」と。

●境内

 境内で写真を撮っていると、白い着物を着た男性が、親しげに近づいてきた。
「どちらから?」と。
「浜松です」と答えると、うれしそうに、あれこれと説明してくれた。

 由緒ある神社だった。
境内には、ほかに3、4人の人たちがいた。
掃除をしたり、あと片づけをしたりしていた。

 帰るとき、ワイフがまた同じことを言った。
「こんなところに、こんな立派な神社があるなんて……」と。

●親切な男性

 街道を歩いていると、(幡豆(はず)街道という)、うしろから軽のバンが追いかけてきた。
私たちの横に止まると、中から70歳くらいの男性がこう言った。
「乗せていってあげるよ」と。

 先ほどまで神社にいた男性だった。

「はあ……」と私。
「西浦温泉まで、乗せていってあげるよ」と。

 私とワイフは、そのままバンに乗った。

男「まだ、だいぶあるよ」
私「すみません……。いえね、私、こうして見知らぬ人に車に乗せてもらうのは、この40年で、
はじめてではないかと思います」
男「ははは……」と。

 そう、この40年間で、はじめての経験だった。
他人を乗せたことはあるが、見知らぬ人に乗せてもらったことはない。
が、居心地は悪くなかった。
先ほどの神社で、賽銭として、もっていた小銭をすべてはたいた。
そのご利益?

●旅館「葵」

 一文字で、「葵」。
立派な旅館だった。
玄関を入ると、フロントまで一直線の赤いジュータンが敷いてあった。

 ここで訂正……「ペントハウス(最上階)」を思ったが、フロントからつづきになっている、一番
奥の部屋だった。
露天風呂付きの部屋。
ドアを開けると、下足置場だけで一部屋分あるほど、中は広かった。
「すごい部屋だな」と。

 仲居さんが、露天風呂の使い方を、あれこれ説明してくれた。

●温泉

 私たちはいつものように一服すると、そのまま大浴場へ。
大浴場には、私、1人だけだった。
ラッキー!
こういうのを私は子どものころ、「一番風呂」と呼んでいた。
町の銭湯で、そういう言葉を使った。

●銀波荘

部屋からは、渥美湾が一望できた。
少し前に泊まった、銀波荘がすぐ前の眼下に見えた。
その銀波荘の料理は、超一級。
料金も高かったが、それだけの価値はあった。
そんな話をしながら、ワイフと遠くの景色を眺めた。

 別の旅館に泊まりながら、隣の旅館をほめるというのも、どうかと思う。
が、銀波荘の料理には、驚いた。
一品、一品に、奥深い趣向がこらされていた。

●人間関係

 ここへ来る電車の中で、ワイフとこんな話をした。
人間関係について。

 都会に住んでいる人は、あまりそういう話はしない。
理解できないだろう。
しかし人間関係が濃密な田舎に住んでいると、それがよくわかる。
こういう話。

 たとえばA、B、C、D、Eさんの5人がいたとする。
五角形を頭の中で描いてみればよい。
そのとき、対角線を描くと、計10本の線が引ける。
具体的には、A−B、A−C、A−D、A−E、B−C、B−D、B−E、C−D、C−E、D−Eと。
それぞれが、別の人間関係を形成する。
実際には、双方向性ができるから、20本の線ということになる。
A−Bの関係と、B−Aの関係が、異なるときがある。
Aさんは、Bさんが好き。
が、Bさんは、Aさんが嫌い、と。
だから20本。
こうして地方の田舎では、複雑な人間関係が形成される。

●評価

 たとえば同じBさんを、Aさんは、ほめちぎる。
が、同じBさんを、今度はCさんが、ボロクソに叩く。
同じ人物なのに、人によって評価が、まったくちがう。
ときに、その評価が180度、異なるときがある。

 もちろんこの私についても、だ。
Aさんは、私のことを、よい人だと言う。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 が、私は同じ「私」なのに、Bさんは、私のことを、ボロクソに叩く。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 そのときたいへん興味深いのは、そういう評価は、若いころはまだ流動的ということ。
が、50歳を過ぎると、それが固定化してくる。
ボロクソに叩く人は、それこそ20年前、30年前の話を持ち出して、叩く。

 が、それだけではない。
心のどこかにもっていた(わだかまり)が、50歳や60歳を過ぎたころ、一気に噴き出す。
そのため評価の仕方も、極端になりやすい。

●人間のクズ

 たとえば、こんな例。

 A氏とB氏は、ほぼ同じ年齢。
が、A氏は、よい家柄の御曹司。
B氏には、その家柄がない。

 それもあって、A氏は、子どものころからB氏を、「下」に置いていた。
B氏は、「下」という立場に甘んじていた。
こうして20年、30年と過ぎる。

 が、そのころから、B氏はA氏をボロクソに叩くようになった。
「あいつは、人間のクズ」と。
が、肝心のA氏は、いまだにそれに気づいていない。
「私は尊敬されるに値する人間だ」と。

 が、ここで先にも書いたように、おもしろい人間関係が形成される。
ふつうは、「好意の返報性」といって、相互に似たような人間関係になる。
A氏がB氏をよい人と思っていると、B氏もまたA氏のことを、よい人と思うようになる。
日本でも昔から、『魚心あれば、水心』という。
英語の格言にも、「相手は、あなたが思うように、あなたのことを思う」というのがある。
ふつうなら、そうなるのだが、先にも書いたように、人間関係はそれほど単純ではない。
とくに濃密な近隣関係にある世界においては、そうだ。

●おもしろい人間関係
 
 で、そのA氏を、C氏は、高く評価している。
「Aさんは、すばらしい人だ」と。

 理由を聞くと、「先祖を大切にしているから」と。
A氏は、毎年、盆暮れになると、名古屋からやってきて、墓参りをきちんとする。
が、A氏は、C氏をボロクソに叩く。
「あいつは、墓参りすら、きちんとやっていない」と。

 A−Cの関係と、C−Aの関係が、中身において、ちがう。
それがここに書いた「おもしろい人間関係」ということになる。

●表面(おもてづら)

 が、さらに興味深い現象が、起きる。
そういう関係にもかかわらず、(たいへん複雑に入り組んだ関係にもかかわらず)、それぞれの
人たちは、みな、見た目には、よい人間関係をつづけている。
表面(おもてづら)と、裏面(うらづら)を、巧みに使い分けている。
まさに面従腹背。
ボロクソに叩きながらも、だからといって、喧嘩しているわけではない。
いっしょに飲み食いをしたり、ときには、いっしょに旅行もしたりする。

 都会に住んでいる人には信じられないような話かもしれない。
しかしこの浜松という、人口80万人の都市においてすらも、そういう現象が起きる。
それをワイフは、「おもしろい」と言う。
私も「おもしろい」と言う。

私「だけどね、ぼくは、そういうことができない」
ワ「そうね、あなたには、できないわね」
私「そうなんだよ。裏で悪口を言いながら、表では仲よくつきあう……。とてもぼくにはできない」
ワ「私もできないわ」
私「だからね、ぼくのばあいは、その人の悪口を書いたばあい、その人とは、つきあわないこと
にしている」と。

 そう、それは事実。
私は一度でも、その人のことを悪く書いたばあいには、(たとえその人とわからないように書い
たばあいでも)、その人とは縁を切ることにしている。
それをしないと、脳みそがバラバラになってしまう。

 だから……当然のことだが、その人の悪口を書くときは、最後の最後……。
……というより、めったに書かない。
そんなことをすれば、筆が汚れる。
自分の住む世界を狭くする。

●『道徳的未熟児』?

 たった今、あちこちのニュース・サイトに目を通した。
その中に、こんなのがあった。
朝鮮中央通信(北朝鮮)が、こんな論評を出している。
いわく、

『朝鮮中央通信は3日、「大国葬を迎えた朝鮮民族の胸を刃物で刺す日本の道徳的未熟児」と
いう論評で、隣国の大国葬をともに悲しみ慰めることができないとしても、朝鮮民族声援の弔
問までも遮断する日本当局の行為は卑劣だと主張した』(ヤフーNEWS)と。

 ごちゃごちゃと書いている部分は、無視してよい。
あの国の言っていることは、いつも常識をはずれている。
が、この中にある、『道徳的未熟児』という言葉だけに注目してほしい。
(『道徳的未熟児』だぞ!
この私たち日本人が!)

 こうして世界中にニュースが配信されたから、私もあえて書く。
「道徳的未熟児」とは、いったい、どういう子どもや人をさして言うのか。

 ためしに「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみてほしい。
一例も、ヒットしないはずである。
「未熟」という言葉はよく使う。
しかし子どもや人をさして、「未熟児」とは言わない。
また言ってはならない。
(この原稿は別として。)

 私は幼児教育歴43年になるが、「未熟児」などという言葉は使ったことも、口に出して言った
こともない。
講演などでも、一度もない。
(当然のことだが……。)

タブーというより、禁句。
禁句と意識する以前の、禁句。

 こういう言葉を、堂々と使う北朝鮮が、恐ろしい。
1.どういう子どもをさして、未熟児というのか
怒れるよりも先に、あきれる。
それとも北朝鮮には、未熟児はいないというのか。
子どもの3分の1以上が、栄養失調と言われている。
そういう子どもたちが、未熟児になる心配はないのか。
 ともかく、この言葉には、驚いた。
私たちがけっして口にしてはいけない言葉。
それが「未熟児」。
もともと私の思考回路の中にさえ、ない。
そういう言葉が、こうして堂々と、活字になっている!

 私はそれに驚いた。

●露天風呂

 夕食前に、2度目の露天風呂に入った。
雲ひとつない、紺碧の夜空だった。
月が美しく、星もまばたきもせず、その横に散らばっていた。
それを見ながら、決心した。
「露天風呂を作ろう!」と。

 以前から計画していたが、二の足を踏んでいた。
とくに理由はないが、その時間がなかった。
しかし作ろうと思えば、1日で、できる。
板を敷き、その上に、風呂釜を置く。
風呂釜は何でもよい。
友人のTH氏は、ドラム缶を置いて、風呂にしている。
(本物のドラム缶だぞ!)

 この温泉の露天風呂は、陶器でできた瓶(かめ)。
どこかにそれを売っている店もあるはず。
……しかし、お湯を抜くときはどうすればよいのか。
陶器に穴をあけるのも、たいへん。

ウ〜ン?

●「はやし浩司 未熟児」

 たった今、「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみた。
これは念のため。
万が一にもその言葉を使っていたら、私は自分の評論生命を絶たねばならない。
そう思いながら、検索をかけてみた。

 ヤフーの検索で、557件、ヒットした。
「未熟」という言葉で、ヒットした。
「未熟児」という言葉は、やはり一度も使ったことがない。
それがわかった。

で、その2件目に、つまり557件中、上から2件目で、「脳の未熟化」について書いた原稿が見
つかった。
こんな旅行記に、その原稿を載せるのもどうかと思うが、ここに転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「脳の未熟化」(澤口俊之著「したたかな脳」)

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
 私も、そう思う。
 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。
ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。
いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」
(養老孟子)になってきたということ。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んだという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。
服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。
最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかって
きました」(同書、P34)と。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。
しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。
言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。
「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさな
いと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験によればの話だが、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満
4・5歳から5・5歳。
この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになる。そう
でなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。
遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。
一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。
わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完
成されると考えてよい。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。

(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳 はやし浩司 教育 林 
浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言語能力

 その言語能力で気になるのが、最近の若い人たちの話し方。
鼻から息を抜きながら、フガフガした言い方をする。
たとえば、「いらっしゃいませ」を、「ヒラッアシャハイ、ムァーセ」と。

 幼児教育の世界には、「発語障害」という言葉がある。
が、そのどれにも属さない。
ということは、後天的に、こうした言い方は、クセとしてその人に定着する。
若い女性に多い。
「このままでいいのか?」と、考えたところで、思考停止。

 言葉というのは、そういうもの。
いつも大衆が、その流れを決めていく。

が、好きか嫌いかと聞かれれば、私は嫌い。
聞きづらいという点で、私はそういう言い方が、嫌い。
日本語が基本的な部分で、壊れつつある。
そんな危機感さえもっている。

 フロントでチェックインしていたとき、同時に並んだ若い女性たちが、みな、そんな話し方をし
ていた。

●夕食

 夕食は、海賊焼き。
伊勢エビ、アワビなどの豪華品に、あとは定番。
量は多すぎるほど。
満足したというより、楽しかった。
凝(こ)った懐石料理もよいが、私はこのタイプの夕食のほうが楽しい。
肩も凝らない。

●露天風呂

 夕食後、私は再び、露天風呂へ。
ワイフはDVD鑑賞。
これもいつもの定番。

 月に白いモヤのような雲が、かかり始めた。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空をながめる。
無我の時。

 よく誤解されるが、私はいつも、ものを考えているわけではない。
ものを書いていないときの私の頭の中は、カラッポ。
いつも馬鹿話ばかりしている。
ふだんの私を見たら、あなたはこう思うだろう。
「この男は、馬鹿?」と。
(実際、馬鹿なのだが……。)

 それが私の特技かもしれない。
ものを書いているときの私の脳みその中は、モヤモヤでいっぱいになる。
が、そうでないときの私の脳みそは、カラッポ。
モヤモヤとカラッポ、それをいつも繰り返している。
そのときが、そうだった。

露天風呂に入っているとき、私の脳みその中は、カラッポだった。
完全にカラッポだった。

●近視主義者

 ワイフは、「今を楽しもう」と言う。
私は、悲観論者。
自分の末路を考えると、どうしても悲観的になる。
このちがいは、どこから生まれるのか。

 が、私はワイフが楽観論者とは思っていない。
現実主義者でもない。
私は「近視主義者」と呼んでいる。
いつも目先のことしか、考えない。
目先のことしか、見えない。
つまり未来を予測しながら生きるということを、しない。
「何とかなるわ」が、ワイフの口癖。

 そういうワイフを、うらやましいと思うときもある。
そういうときは、こう思う。
「ぼくのような変人には、ワイフのような妻がいちばん似あっている」と。
 
 が、そうでないときもある。
私の未来的な絶望感を理解できないときがある。
老後のことを心配したりすると、すかさず、こう言い返す。
「忘れなさいよ」と。
そういうときは、たいへん苛(いら)立つ。
「忘れることができないから、悩んでいるのだ!」と。

 が、結局のところ、……いつも、最終的にはいつもそうなるが、ワイフが正しい。
私が負けを認め、それでおしまい。

 ……この文章をワイフが読むかどうかは、わからない。
わからないが、正直に告白する。
負けを認める。

私が恐れていることは、自分の老後のことではない。
孤独死とか、無縁死でも、何でもよい。
そんなことは、どうでもよい。
私が恐れているのは、いつか、ワイフがいなくなったときの世界、である。
はたして私は、そんな世界に耐えられるだろうか。

●10年、早ければ……

時刻は、午後9時を、少し回った。
ワイフは相変わらず、DVDを見ている。
聞き慣れない言葉である。
ドイツ語のようでもあるが、ドイツ語でもない。
「No」という意味で、「ネイ」と言っている。

雰囲気からして、オランダの映画?
北欧の映画?
よくわからない。
……というか、この世界には、私の知らないことのほうが、多すぎる。
だからときどき、こう思う。
気がつくのが、もう10年、早ければよかった、と。
10年早ければ、もっと新しいことを知ることができた、と。

 が、今は、ちがう。
脳みその働きそのものが、鈍くなってきた。
片端(かたっぱし)から新しいことを知り、同時に、片端から忘れていく。
これではいつになっても、前に進むことができない。
このはがゆさ。
このもどかしさ。

 DVDの主人公たちは、私たち日本人がもっている価値観と、まったく異質な価値観をもって
いる。
それを知るためには、彼らとともに生活しなければならない。
苦楽を共にしなければならない。

 反対の立場で考えてみると、それがよくわかる。
たとえば「家・意識」。
アメリカ人やオーストラリア人に、日本人がもつ「家・意識」を説明しても、理解できない。
彼らがそれを知るためには、また理解するためには、日本に住み、日本人といっしょに生活し
なければならない。

●知的優越感

 知的優越感というのは、確かにある。
私も、ある時期、それを強く感じた。
「私は、君たちの知らない世界を知っている」と。

が、今はそれも色あせ、老後の中で、ごちゃ混ぜになってしまった。
ただその一方で、私から見ると、化石のような人に出会うことは、多くなった。
その人が「化石」というのではない。
私の中に残っている「化石」そのままだから、「化石のような人」という。

 少し入り組んだ話になるが、許してほしい。

 若いときに(外の世界)へ出た人と、反対に、生まれも育ちも、そしてそれ以後も、ずっと(内
の世界)に住んでいる人がいる。
(外の世界)へ出た人には、(内の世界)がよく見える。
が、ずっと(内の世界)に住んでいた人には、当然のことながら、(外の世界)がわからない。
わからないまま、(内の世界)を基準にして、ものを考える。
(外の世界)を想像したりする。

 こう書くと、(内の世界)に住んでいる人は、こう反論するかもしれない。
「外国のことはよく知っている」「ときどき外国へ旅行する」「テレビでもよく紹介されるから、それ
を見ている」と。

 しかし(外の世界)を知るということと、観光客として、外国を訪れるということの間には、天と
地ほどの開きがある。
(外の世界)の人だって、観光客には、自分たちの世界を見せない。
さらに中には、私にこう言う人もいる。
「君は、外国かぶれしている」と。

●化石

 そこで私自身を振り返ってみる。
もし私があのまま日本の会社に入り、そのまま60歳を迎えていたら、私はどうなったか、と。
「あのまま」というのは、99・9%の日本人がそうであったように、(外の世界)を知らないまま、
日本だけに住み、日本の中で生活をしていたら、という意味である。
が、これについては、何も、想像力を働かせなくてもよい。
そういう人を、あなたの周辺から探してみれば、それでよい。
探して、そういう人が、どういうものの考え方をしているかを、知ればよい。
つまり、それが(あのままの私)ということになる。

 が、最近は、そういう人たちが、私には、「自分自身の化石」に見えるようになった。
先に「化石のような人」と書いたのは、そういう意味。
「過去の自分のまま」という意味で、そう言う。

で、私と彼らはちがう……というのは、あくまでも結果論にすぎない。
ここでいう「化石」というのは、私自身の内部で、核になっている「私」を意味する。
固くて、心の中で石のようになっている。
だから「化石」。

●因習

 もう少し具体的に話そう。

 私は子どものころ、学校が休みになると、決まって母の実家のある田舎で過ごした。
そこには、古い因習が、ぎっしりと詰まっていた。
そこはまさに、(情の世界)。
すべてが「情」を中心に動いている。
(だからといって、因習や情を否定しているわけではない。誤解のないように!)

 しかしそれが因習とわかったのは、ずっと後になってからのこと。
30代、40代になってからのこと。
が、もし私があのまま(外の世界)を知らないでいたら、私自身が因習を因習とも気づかないま
ま、私はそれをそのまま踏襲していただろう。
事実、そのあたりにそれ以後も住み、そこで暮らした人たちは、そっくりそのまま因習を踏襲し
ている。

●智に働けば……

 が、ここでいつも、厚い壁にぶち当たる。
そういう化石のような人たちに出会うと、(けっしてそういう人たちが、「下」とか、そういうことを
書いているのではない。誤解のないように)、言いようのない無力感を覚える。
あまりにも遠くに住んでいて、どこからどう説明したらよいのか、わからなくなる。
実際には、不可能。
つまり私を理解するのは、不可能。
だから私のほうが、先に引いてしまう。
引いて、私のほうが、彼らに合わせる。

 「そうですね」「そのとおりです」と。

 が、それはむずかしいことではない。
私の中にある「化石」を、そのまま引き出せばよい。
ちょうど机の引き出しから、古い本を取り出すように、だ。
あとはその化石を見ながら、相手に合わせていけばよい。

 ところで夏目漱石は、『草枕』の冒頭で、こう述べている。

『智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される』と。

 理性だけを主張していると、他人との衝突がふえる。
しかし相手の情に同調していると、自分を見失ってしまう、と。

 たしかにそうだ。
相手に合わせるのは、むずかしいことではないが、いつも後味が悪い。
いや〜な気分になる。

●01月04日

 今日は1月4日。
時刻は午前8時30分。
西浦駅に向かうバスが、9時に出るという。
今、そのバスを待っている。

 まぶしいばかりの白光。
昨夜は遅くまで波の音が聞こえたが、今は、それもない。
窓の外の波を見ると、岸のほうから太平洋側に向かって、動いている。
今日も、北風。
寒い1日に、なりそう。

 そうそう、昨日、オーストラリアのB君からメールが届いた。
南オーストラリア州では、ここ2日ほど、気温が41度を超えているという。
41度!

 もっともオーストラリアでは、空気がカラカラに乾燥しているから、41度といっても、日陰に入
れば、涼しさを感ずる。
夜も寝苦しいということはない。
が、心配なのは、ブッシュ・ファイア(山火事)。
大平原が、それこそ関東平野分ほど、燃えたりする。
それが気圧の移動とともに、あちこちを燃やし尽くす。
それがこわい。

●旅の終わり

 あわただしいが、これで旅行記はおしまい。
西浦温泉、たつき別館、『葵』にて。
2012年の英気を、ここで養う。

 はやし浩司・晃子
はやし浩司 2012−01−04

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 西浦 葵 たつき別館 西浦温泉 葵)


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【占星術というカルト】

●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!

++++++++++++++++++++

雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。

「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)

「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
          ……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
           (以上の両者を合計すると、84・1%!)

「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
             ……手相(17・9%)
             ……タロット・カード(11・8%)
              (以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)

++++++++++++++++++++

●雑誌「MOM」

 雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚い
た。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。

●占星術

 占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基
本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではない
のか。
例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごして
いると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべき
である。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星
術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを
参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるも
の。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むア
リ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ
いと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論
 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 カルト 狂信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべて
が一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それ
を超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信
仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展し
たり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国
でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといって
よいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を
立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結
びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体
は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件であ
る」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。

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Japan はやし浩司 イスラム教と占星術 狂気性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力をなくした人々

 宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。

このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教とは何か(カルトについて考える)

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。

そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロ
ルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審
判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末
の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になる
こともある。

つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。

人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。

4〜5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

たとえば「家庭内宗教戦争」。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしま
う。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくい
く。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。
 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおか
げよ。
それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。

●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教を
つくって独立した。
それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。
 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。

●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったと
みる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになっ
てしまう。

 何のための人生?
 なぜ生きているのか?
 どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
 どこに求めればよいのか?
 何もできないむなしさ。

力なさ。
そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?

 国際情勢は?
 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
 生きる目的は何か?
 それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感
が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にす
る。

 しかし……。
 それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお
金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人であ
る。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。

●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えて
いる。
 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすか
の、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。

●常識の力を大切に!

 今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
 みなさんといっしょに、戦うぞ!
 世の正義のため、平和のため、平等のために!

 ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上にな
る。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。

 いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉
がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされ
る。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷
居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られた
り、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間
に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もい
たという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行く
と、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー
教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術?
 ばか!
 アホ!
 インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気
づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり!
 反論するのも、いや!
 ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3〜6年生)が、
占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になってい
るとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱ
りと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならな
い。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇〜八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はい
くらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年
秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)

 時間的にも、空間的にも、無限(?)
 そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。
ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがって
いる。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもお
かしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコー
ナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占
い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向
論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、
それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自
ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
 「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだと
わかった。

 さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声
で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来
世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われ
て、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?

 もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わってい
る。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周
囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れ
ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさな
いこと。

 手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよ
う。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
 ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をい
う。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無
間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道
をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちが
いない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくる
はず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 予言 預言 信仰とは 
はやし浩司 宗教論 宗教 はやし浩司 占い まじない)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年01月03日朝

 今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。

 もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。

 大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力とは何か

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。 

「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけ
たモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

 もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテル
を張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。

 それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性

……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性

……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。
思考も同じ。

●先鋭化

……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考力 パンセ パスカル カル
トと闘う 宗教と神秘主義 はやし浩司 宗教論 霊について スピリチュアル インチキ)2012
/01/03記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●小学2年生に(かっこ)のある計算式の計算方法を教える。

5−(3−2)=4、ですね。
そんな計算式の計算法を教えてみました。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/BSP9vR55aMY" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/dbTbwbP2O3I" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/1w2kZROjnIY" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012−01−01夜記)

++++++++++++++++++++++++

年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。

思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。

ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。

人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。

子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。

その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。

では、私は、どうなのか?

これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。

最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。

が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。

要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。

そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。

もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。

ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。

では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。

+++++++++++++++++++++++++

【己こそ、己のよるべ論】

●ジョン・レノン

ジョン・レノンは、つぎのように言っている。

★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's Yoko's story . That's 
what I'm saying now. Produce your own dream. If you want to save Peru, go save Peru. It's 
quite possible to do anything, but not to put it on the leaders and the parking meters. Don't 
expect Jimmy Carter or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or 
Jesus Christ to come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great 
masters and mistresses have been saying ever since time began. They can point the way, 
leave signposts and little instructions in various books that are now called holy and 
worshipped for the cover of the book and not for what it says, but the instructions are all 
there for all to see, have always been and always will be. There's nothing new under the sun. 
All the roads lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You 
can wake you up. I can't cure you. You can cure you. 
……John Lennon, In Music/John Lennon 

君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。その
ことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルー
へ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パ
ーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。

ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、ある
いはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだ
よ。自分でしなければ、いけないよ。

それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼ら
はみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできる
よ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方とい
うのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。

太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のため
にはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だ
けが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)

●仏教では

 ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あたなを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中日新聞に掲載記事より

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使
った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになる
の!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを
殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を
叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その
原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するように
なる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追
い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を
伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブ
ッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの
やり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、その
ことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れ
むために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書
店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそ
が、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しか
しその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原
典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いて
いる。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。

しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えな
い。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろう
か。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて
迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。

(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。

(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。

(02−7−24)

【注】

 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解で
きる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。
いるわけがない。

(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」
=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。

だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)

そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうや
しく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。

中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏
教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。

 たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてある
が、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。

 チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりす
る。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると
思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッ
タ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

 仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろ
うか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教 ダンニパダ ゴー
タマ・ブッダ はやし浩司 木片を焼いて バラモン はやし浩司 中村元 中村 元 原始仏教
 北伝仏教 大乗仏教 はやし浩司 パーリ原本協会)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。

宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後
は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」と
いう程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベ
ット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしても
できない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまい
ということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるも
のはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

【前向きの人生、うしろ向きの人生】

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほ
どまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)

 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出し
たという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率
を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた
女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。

「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。
そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのよう
なものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど
前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書い
たのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というの
は、そういうものを期待してするものではない。

ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つ
まり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているので
は……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
 
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが
……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格
で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。

「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。

が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないこと
と言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようにな
るかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという
間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。

……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目
的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考え
ているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでし
まうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていく
のがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということ
になる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分の力で生きる

 生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。

が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。

 最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

(終わりに)

 マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 マザーテレサ
 キリストも孤独だった イエス・キリスト 孤独論 はやし浩司 マザー・テレサ)

(はやし浩司 2012−01−01夜記)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【KO氏より、はやし浩司へ】

貴兄のブログで菅前首相、吉田前工場長を絶賛されているので驚き、嬉しく思いました。
特に菅前首相は史上最悪の首相と様々な分野で評価されていますので。

私は東工大機械工学卒で菅さんの後輩、吉田さんの先輩に当たります。
菅さんも自分の行為は歴史が評価するというようなことを言っていますが、まさにそういうことに
なるのだと思います。
私は早期退職、セミリタイア状況で、技術アドバイザーとして週に2日程度活動しております。
また高校OB会の地元の会長をやって(やらされて)おります。
原発関係ではあの清水前社長や天野IAEA事務局長が、高校先輩になります。

宇宙飛行士の古川さんは後輩ですが、彼のことだけは嬉しいことでした。
環境・エネルギー関係そしてハワイについてのブログをUPしていますので、お時間のある時に
見ていただけたら幸甚です。

【GTさんから、はやし浩司へ】

はやしさん、こんばんは。
GTです。
日本はお正月ですね。
韓国は、旧正月なので、今日から普通の生活が始まっています。
はやしさんも韓国に住まれていらっしゃったんですね。
当時だったら、反日感情も大変だったのではないでしょうか?
いろんな経験をされていて、すばらしいです。
お返事ありがとうございました。

温かい無視ってそういう事だったんですね。
実際信じて待つって大変なことですよね。
義母なんかは未だにこれができなくて、息子(私のだんな)は責任感がないようです。
下の子が何かをやろうとしていると、すかさず「こうするんだよ〜」と口を出すので、下の子も
「ハルモニ(おばあちゃん)いや!」って、言います。
自力でやりたがっているので。
端から見ているとよく見えるけれど、実際私はどうなのか客観的に見てみる必要があります
ね。
基本的に待つようにしていますが、時間がかかってつい教えようとすると、怒り出してしまって、
そうなると、「あ、待っているべきだったのに」と気づくことがあります。
ほんとに子供が親を教育してくれていますね。

それから、はやしさんの「そのうちおさまってくる」という言葉を信じて、今年は下の子を保育園
に送らないと腹をくくって、関わっていこうと覚悟を決めました。
聞いてくださってありがとうございました。

にっちもさっちもいかない状態が楽になりました。
ありがとうございました。

GTより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●励まし

 私は毎日、こういう読者の方たちに支えられている。
またそれがあるからこそ、こうしてものを書くことができる。

KOさん、GTさん、ありがとうございました!
今年も、がんばります。
よろしくお願いします。

●菅直人前首相

 たいへん恥ずべきことだが、私は「菅直人前首相」を、「管直人前首相」を書いていた。
正しくは、「管」ではなく、「菅」。
KO氏は、以下の私の書いた原稿に、先に転載したコメントを寄せてくれた。
もう一度、そのとき私が書いた原稿を、掲載する。
日付は、2011年09月12日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。

読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所
事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発か
ら全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済
産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題
に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そ
ういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話した
という。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関
に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見
方を示した。

 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人
が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東
京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、
との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有して
いる。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考
えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言も
そのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要
との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注
入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評
価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱
させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したの
は東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8
日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのも
のが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没
していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を
起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質
が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(横尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グル
ープ調査。)

 が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、瀬尾試算、「原発事故」宝
島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わ
ずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間は
あの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人
の英断。)

以上、2011年09月12日の原稿より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?

 菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。

 現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。

ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のあ
る人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。

談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。

 これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切って
いたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。

 最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道
が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。

 バカヤロー!

 あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。

 こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わ
りない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。

 菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言ってい
る。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11−09−12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。

 菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原
発事故 はやし浩司 英雄 菅直人)

●GTさんへ

 GTさんは、子どもの母子分離不安について、相談してきた。
それに対して、私は2つのポイントをあげた。

(1)温かい無視
(2)求めてきたときが、与えどき、と。

 その「温かい無視」について、「では、具体的にはどうすればいいのか?」と。
それについて、GTさんには、つぎのような返事を書いた。

【はやし浩司より、GTさんへ】

GT様へ

こんばんは。

こちらは昨日まで寒くてしかたありませんでした。
韓国はもっと寒いかと思います。

「温かい無視」は、子育ての鉄則のひとつです。
要するに、子どもの側に視点を置き、子どもが親の鋭い
視線を感じないようにするということです。

どうしても今の時期は、過関心、過干渉に
なりやすいので、注意します。

子どものやりたいようにやらせながら、しかし愛情だけは
しっかりともつということです。

ラッセルは、「限度」という言葉を使いました。
「限度をわきまえろ」と。

子どもに任すところは任す。
親の思い通りにならないことについては、じっとがまんし、耐える。
その耐える部分が。愛情ということになります。

(子どもを愛するということは、つらいことですよ。)

韓国という地で、がんばっておられるGT様を尊敬します。
何かとたいへんだろうと思います。

私も1967年、交換学生として、韓国に行きました。
テグ、ソウルなどを転々としました。
ヤンセイ大学、テグ大学などなど。

男のくせに、リファ女子大学(ソウル)にも行きました。
宿舎はなんと、ナムサンにあった、(今でもあるそうですが)、
タワーホテルでした。

当時の韓国は、本当に貧しかったです。
ミョンドンの大通りも、ロープに裸電球をぶらさげただけの明かりしか
ありませんでした。

ただ、焼肉がおいしかったです。

(当時の日本人には、焼肉は高級料理で、とても食べられませんでした。)

いろいろ思い出があります。
では、

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 冒頭にあげた、GTさんからのメールは、その返事。

 GTさん、今年もよろしくお願いします。
2011年から2012年をまたいだ、もう1年のつきあいということになりますね。
では、今夜は、これで失礼します。
どうか、お元気で!

はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●小1児に、(かっこ)のある計算を教える。
5−(3−1)=3、ですね。
覚えていますか?


(1)
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(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/_nz-E2YqPdc" 
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(3)
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生きる目的と意味、そしてその生き様】(はやし浩司 2012ー01−01)


●前向きに生きる

 前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。

(1)失ったものを、嘆かない。
(2)去った人を、追わない。
(3)ないものを、ねだらない。
(4)亡くなった人を、思わない。
(5)過去を、くやまない。
(6)失敗を、気にしない。
(7)自分の不幸を、数えない。

 が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。

(1)あるがままの自分を認める。
(2)負けを認める。
(3)今を原点として、生きる。

 人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。

今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。

その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。

 他人に対しては、つぎの5つを守る。

(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。

 さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。

(1)私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2)年齢という数字を、気にしない。
(3)最後の最後まで、居直って生きる。
(4)孤独死、無縁死を、恐れない。

 あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。

 朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。 
それを「真の幸福」という。

 前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!

 『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 幸福論 前向きに生きる 老後の生き様 過去を振り返らない はやし浩司 失
ったものを嘆くな)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●人を恨まない

 H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。

 『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。

『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。

 が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。

●真の自由

 過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。

 すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。

●運命

 今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。

 大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから
退散していく。

 方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。

 書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。

 もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。

 が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ネズミを追い出すために はやし
浩司 運命論 真理 負けるが勝ち 希望とは 希望論)

●2012年01月01日

 さあ、ともあれ、2012年は始まった!

 友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。

 馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。

 私たちはそういう人を、憐れんでやろう!

 人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。

 あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 2010−01−01 はやし浩司 
前向きの人生)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【運命と自由について】(はやし浩司 2012−01−01)

+++++++++++++++++++++++

硬い話をする前に……。

昨夜寝る前に、宝くじの当選番号を調べた。
毎年、10枚だけ、買うようにしている。
その番号、何と、2等と、たったの30番ちがい!
2等は、1億円。

(2等は、37組101799番。
私がもっていたのは、101760〜101769番!)

ハズレはハズレ。
が、宝くじというのは、当たって喜ぶ人より、
わずかにハズれ、悔しがる人のほうが、はるかに多い。
だったら、買わないほうがよい。

ワイフは、「だいぶ、近づいたわね」と喜んでいる。
「次回は、当たるわよ」と。
私は「二度と接近遭遇はないだろう」と。

こうして新春の夢は、フワ〜ッと消えた。

では、硬い話……。

++++++++++++++++++++

●運命論

 2004年12月24日に、運命論について書いた。
今からちょうど7年前になる。
それをそのまま掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命論

 ある文学者は、こう言った。
『幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
一つとて、同じものはない』※と。
どこかの文学者だったが、名前は忘れた。

(※トルストイの「アンナ・カレーニナ」冒頭の言葉。)

 その不幸な家庭。
こんな話がある。

両親は、その女性が3歳のときに、離婚。
原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。
その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も自宅に放火、そして自殺。
言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼女が、6歳のとき。
しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、それが理由で、今度は、別の叔母の家に預けら
れた。
彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。
この話は、控えめに書いたが、事実である。
今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭を築い
ている。

 私は「運命」を否定しない。
その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の人生を決めてしまう。
そういうことは、よくある。
それを「運命」というなら、運命は、ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎと襲いかかってくる。
容赦なく、襲いかかってくる。
いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。
不安と心配。
悲しみと苦しみ。
それらがこん然一体となって、その人に襲いかかってくる。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。
そのふんばるところに、人が生きる美しさがある。
生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、ゴマン(5万)といる。
5万どころか、50万、500万といる。
世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人のほうが、はるかに少
ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。
「私だけが不幸だ」と、思わないこと。
みなが、みな、そうだ。
そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしながら、生きていくというこ
と。
運命に負けてはいけない。逃げてもいけない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。
不幸は、それ自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれ
る。
何が大切で、何が大切でないか。
そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。
それを教えてくれる。

 さあ、恐れることはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。
前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。
(2012年12月31日夜、一部、改変)

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いて
あった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく
知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(以上、2004年記)

(はやし浩司 運命論 幸福論 幸福な家庭 不幸な家庭 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩
司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福な家庭は みな
 よく似ている)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7年前

 7年前に、今と同じことを考えていたというのは、興味深い(?)。
あるいは私は、この7年間、何も進歩しなかったということか(?)。
基本的な部分では、7年たった現在も、同じ。
同じ運命論をもっている。
ただ誤解しないでほしいのは、運命論といっても、今、流行(はや)りのスピリチュアル風のもの
ではない。
また運命といっても、自分の過去を振り返ってみたとき、そこに残っている足跡をいう。
未来に向かって、あるのではない。
もちろんもろもろの「糸」をていねいに総合すれば、ある程度の未来は予測できる。
しかしあくまでも「予測できる」という範囲のもの。

 仮にある程度、未来が決まっていたとしても、最後の最後ではふんばる。
そのふんばるところに、生きる意味がある。
生きる美しさも、そこから生まれる。 

●死後の世界

 死後の世界については、よく考える。
原稿もたくさん書いてきた。
で、原稿をさがしてみると、ちょうど去年の今ごろ、それについて書いていたことがわかった。
日付は、2010年11月16日になっている。
書いた場所は、昼神温泉にある、ホテル阿智川。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、そんなことは、一言も言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。

 その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。

 日本でもつぎつぎと偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいる行事は、そのほとんどが偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
『如是我聞(これが私が(釈迦から)聞いたことである)』で始まる経典は、まず疑ってかかった
ほうがよい。

●宝くじと同じ

 話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。

 「あの世があるなら、早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。

●「もうこりごり」

 そんなわけで、人生は1回ぽっきりの、1回勝負。
2度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし1回で、じゅうぶん。
1回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。

 たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。

●別れ

 たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
 
 そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。

 さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。

 繰り返しになるが、あの世はない。
……と、今は思うが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
(以上、2010年11月16日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論

 先の原稿の中で、私は「あの世はない」と、断定的に書いた。
が、最近の私は、ときどきこう考える。
仮にあの世があるとするなら、今住んでいるこの世こそが、あの世ではないか、と。

 つまりどこか別の世界に、本元となる世界がある。
その世界から、私たちは、現在のこの世界に、ときどきやってくる。
ときどきやってきて、極楽や、(天国でもよいが)、地獄を経験する。

 それは別として、ともかくも今は、「ない」という前提で生きる。
もう一度、核心部分を、ここに掲載する。

『……死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う……』

 この考え方は、現在の今も、まったく揺らいでいない。

★Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and 
in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and 
sometimes we lose them there again. ―Stephen King, "The Green Mile"

時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、
運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてとき
に私たちは、その人すら再び見失う。(S・キング・「グリーンマイル」)

●死の恐怖

 なぜ私たちは、死を恐れるか?
それについては、どこかの国の独裁者を思い浮かべれば、わかる。
ある賢人はこう言った。

『すべてをもつものは、すべてを失うのを恐れる』と。

 仏教でも、一貫して、死の恐怖が大きなテーマになっている。
もう少し掘り下げて言えば、死の恐怖は、どのようにすれば克服できるか。
死の恐怖と対比させながら、生きる意味を教える。
それが仏教ということになる。

 そこで仏教では、やがて「空」の概念にたどり着く。
それについては、私があえてここで説明するまでもない。
が、たいへん興味深いことは、あのサルトルもまた、同じ結論に達している点である。

仏教という観念論。
実存主義という唯物論。
この両者が、同じ結論に達している。
サルトルは、最終的に、「無の概念」という言葉を引き出している。

 それについて書いた原稿がある。
書いた日付は、2009年11月24日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無の概念」(サルトル)について

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。
「苦しみ」という代償である。
自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。
わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。
明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。
「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。
自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。
(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。
人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。
わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例と
して、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。
そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。
みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。
「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。
いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、
その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。
しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。
少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。
個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。
自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることな
ど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。
サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。
しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたよう
に思う。
そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき(2000年ごろ、中日新聞で発表)

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。
が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれ
は可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。
自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。
苦しかった。つらかった。
しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。
息子をあきらめたのでもない。
息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。
私が感じたのは、まさにその愛だった。
しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●二男に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。
生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。
が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。
そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。
真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。
ないが、しかし一つの目標にはなる。
息子がそれを、私に教えてくれた。
(以上、2000年ごろ、中日新聞で発表)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。
またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。
そういう人は多い。
しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。
どこまでも研(と)ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(以上、2009年11月24日)

 さて、あの独裁者。
最近、亡くなった。
恐らく死の直前まで、安穏たる日々は、1日とてなかっただろう。
不安で不安でならなかったはず。
だから病身を奮い立たせ、各地を回った。
「軍事指導」というのは、あくまでも口実。
失うことを、何よりも恐れていた。
(2012年01月01日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念 はやし浩司 自由論 真の自由
 サルトル 自由刑 自由からの逃走)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年01月01日の朝に

 年越しは、ワイフと長男の、3人で過ごした。
2011年から2012年。
現在、時刻は午前9時。
先ほどまで、自分の書いた原稿を読んでいた。
起きたのは、午前8時ごろではなかったか。
寝室から出ると、まばゆいばかりの朝の陽光が、障子戸を通して居間に注いでいた。
「初日の出は、今年は拝めない」と聞いていたので、「?」と。

 昨年(2011年)は、相良海岸の民宿に一泊し、初日の出を拝んだ。

●運命と自由

 昨夜、こう書いた。

 『……書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という』と。

 振り返ってみると、私はいつもその運命に翻弄されてきた。
いくら声高(こわだか)に、「私は自由だ」と叫んでも、そこにはいつも運命があった。
どうしようもない運命。
その糸の中で、もがいた。
苦しんだ。

 だから……こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
決して兄や母の死を喜んだわけではない。
しかし兄が他界し、母が他界し、つづいてちょうど母の1周忌に、実家を売却したとき、私は生
まれてはじめて、「家」から解放された。
生まれてはじめて、心底、ほっとした。

「家」という「糸」がもつ呪縛感には、ものすごいものがあった。
40代のころは、郷里へ入るときにはいつも、経文の一節を唱えなければならなかった。
『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉を知ったのも、そのころだった。

 怨憎会苦について書いた原稿があるはず。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年08月19日に、こんな原稿を
書いた。
知人の家庭騒動を聞き、書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●魔性との闘い(怨憎会苦※)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

 仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。

が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

 で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。
こんな話を聞いた。

 A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

 A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、「じゅうぶんな介護
をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、「あの土地は、お前に
やる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、「あの土地は、私のもの」と騒い
だ。

 A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

 「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という話になってしま
いました。
で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、あなたには遺産相続権はありません。つまり部
外者ですと説明するのですが、そういう道理すら、通じませんでした」と。

 娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、オレもちゃ
んと横で聞いた。オレが証人だ」と。

 A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

 A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと言われたと
きには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

 まさに怨憎会苦。
魔性をもった人と関わることの苦しみ。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

 「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を貸そうとさえし
ませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

 A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、ゴマンとあ
る。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースとなると、もっ
と多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、貨
幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと言われて
いる。
(このあたりについては、私はかつてかなり詳しく、自分で調べた。)

 今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

 では、どうするか?

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。

つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

 音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。

そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)

(注※、「怨憎会苦」について)

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦し
みをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構
成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが
盛んになりすぎることから生まれる、苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかとい
えば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、
その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ね
はん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。
原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
(以上、2007年07月03日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自由とは何か

 自由とは何か。
一言で表せば、「欲望からの解放」ということになる。

「私」には、無数の「しがらみ」が、まとわりついている。
「私の財産」「私の名誉」「私の家族」「私のお金」「私のモノ」「私の地位」と。
そういったものに縛られている間は、自由など、求むべくもない。

 つまりそうした(しがらみ)をひとつずつ、糸をほぐすようにして、自分から解きほどいていく。
わかりやすく言えば、自分を飾っている衣服を一枚ずつ、脱いでいく。
その結果として、つまり丸裸になったとき、人は、自らを解放させることができる。

 「私」がある間は、魂に、安穏たる日々はやってこない。
仏教では、それを『執着(しょうじゃく)』という言葉を使って、説明する。
その執着を、自ら解き放つ。
わかりやすい例で説明すれば、こうなる。
私の講演などでは、こんなふうに言って、説明する。

 「……こうして私の講演を聞きにきてくださっている方の中には、こんな人もいるでしょう。
家の中に、多額のタンス預金をしている人です。
そういう人は、こういう場にいても、家のことが心配でならないはずです。
『うちの子は、ちゃんと戸締りをして、友だちの家に行っているか』とです。
 
 しかし無一文の人は、そうでない。
家のことは、何も心配しなくていい。

 『私』を簡単に説明すれば、そういうことになります。
へたに『私』があるから、死ぬのが怖いのです。
私の財産、私の名誉、私の家族、私のお金、私のモノ、私の地位と。
が、自分から『私』を取ってしまえば、もうこわいものはない。

 そのときがきても、『ああ、おいでなさったか』と、平穏な気持ちで、それを迎えることができ
る。
つまり死を克服することができる。
サルトルという哲学者は、それこそが、『真の自由』と説いたわけです。
『無の概念』という言葉も、そこから生まれました……」と。

●真の自由

 大切なことは、そこに苦しみや悲しみがあるなら、(孤独でもよいが)、それから逃げないこ
と。
真正面から、立ち向かうこと。
それができる人のことを、『真の勇者』という。
(剣を振り回したり、暴力を振るう人は、ただの馬鹿という。)

 運命というのは、(あくまでも私の運命論によるものだが)、それから逃げようとすると、キバ
をむいて、襲いかかってくる。
が、真正面から立ち向かうと、運命のほうからシッポを巻いて、逃げていく。
臆病で卑怯。
それが運命。

 そして身が燃え尽きるまで、悩み、悲しむ。
とことん、身を燃やし尽くす。
あなたが「もう、だめだ」と思ったその瞬間、あなたは自らを解放することができる。
『真の自由』を手にすることができる。

●2012年1月1日

 さて、今日も1日、始まった。
 
 寒い朝だ。
衣服を着替えるとき、何度も身震いした。
これを(現実)という。
(現実)は(現実)。
私たちはその現実世界の中で生きている。
その現実世界を無視することはできない。

 ……庭にたまった落ち葉を、掃除しなければならない。
帰り道、どこかで朝食をとらねばならない。
家に帰れば、年賀状が待っている。
生徒たちからのものについては、みな、今日中に返事を書く。

 そうそう、楽しみもある。

 1月X日、西浦温泉のA旅館に1泊することになっている。
その旅館の最上階のペントハウスに予約できた。
1日1組だけの、露天風呂付きペントハウスである。
ずいぶんとぜいたくな話に聞こえるかもしれない。

が、これはワイフへの感謝の念をこめた、私からのプレゼント。
この10年近く、モノは買っていない。
ワイフも、いらないと言う。
だからこういう形で、ワイフに感謝している。

 ……つまり私たちはこうした(現実世界)の中で生きている。
またその中でこそ、無数のドラマが生まれる。
無数の人たちが織りなす、無数のドラマ。
そのドラマの中にこそ、生きる意味があり、価値があり、美しさがある。
(現実世界)の中で、たくましく、力強く生きていく。

 その現実感だけは、どんな人生観をもっても、けっして見失ってはいけない。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 2012−01−01 現実世界 運命論 現実社会 運命と自由 解放と運命 
はやし浩司 真の勇者 真の自由 魂の解放)

(以上、2012年01月01日、整理、記)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【冬休み】(今年は、遊ぼう!)

●第1日目

 昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!

 しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。

●年賀状

 本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。

 途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。

 ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。

●ベトナム

 オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。

あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。

●舘山寺に向かう

 舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。

ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。

 ラッキー!

 X日は、そのH会館に一泊することにした。

●小食派
 
 若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。

 料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。

 ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。

●講演

 講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。

 ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろ
う。

 が、楽しいことも多い。

●講演旅行

 何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。

 最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。

 実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。

大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。

 「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。

●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて

 かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。

 部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?

 最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。

 が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。

●特異現象

 金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。

『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総
書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイタ
ー)と。

朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウ
ヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝え
た。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。

 が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。

 だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。

どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。

 もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。

●心の汗?

 肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな
距離がある。
個人差もある。

 一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。

 悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。

 たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。

 だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。

 こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。

 金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考え
た。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。

感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度
が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。

●男が男湯で盗撮?

 さらに驚いた事件が、これ。

『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮
目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi−。ニュー
ス)と。

 男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。

 どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。

私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。

 以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。

 男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。

●男心vs女心

 ここでクェスチョン。

 男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?

 ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。

 なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるという
ことになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。

●夕食

 浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。

 が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。

 部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。

●DVD『ロシアン・ルーレット』

 ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。

 10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)

 ……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。

 問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。

(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。

が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。

 だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。

(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。

●鈴木M氏

 あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。

 その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?

それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。

 受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。

 ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。

 「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネ
ルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにした
い」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。

 あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。

●深夜

 午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。

●リクラゼーション・ルーム

 温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。

入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。

 ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。

●「街道をゆく」

 3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。

 立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなく
なってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。

 盗作した相手に許してもらえた、と。

 が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。

●盗作事件

 ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)

 私の文章が3〜5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。

 そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせ
た。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。

 力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。

 もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。

一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。

 こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。

立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。

 それにもう一言、付け足すと、こうなる。

 「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。

●仮面

 人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。

 が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)

 が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。

 そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。

 このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。

 反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。

●得体の知れない人

 私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。

 そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。

 こんな人もいた。

●辛辣(しんらつ)な書き込み

 こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。

「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。 
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。 
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そ
こに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。 
偏見を助長するだけだよ。 
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ! 
育児論で障害を語るなよ」と。

 反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。

 まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「〜〜日記」)。

「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらし
い。

 「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)
に障(さわ)ったらしい。

が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。

 それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を
書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。

●仮面は仮面

 話を戻す。

 仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。

 こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。

●第2日目

 冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。

 ……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。

 では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011−12−29朝記)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【橋下徹市長の行政改革・支持する】「がんばれ、大阪市長、橋下徹氏!」

●あわててダイエット

 ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!

 ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。

●おせち料理

 ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。

HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。

 今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれた。
だから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!

●計画

 計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、こう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。

 BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大阪市長

 橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。

++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++

原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合
との「闘争宣言」だった。

 橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組
合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組
合批判を繰り出した。

 問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。

 橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1
枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視す
る発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めること
しか、日本再生の道はない」と言い切った。

 労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人
事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。

 市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市
民受けを狙ったんだろう」と漏らした。

++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++

●目の前で歯磨き

 だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。

 私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。

 しばらくすると職員たちが、食事から戻ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。

その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。

 仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!

●橋下市長の闘争宣言

 「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞)と。

 現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。

あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばわかる。
それが現在の公務員社会である。

 ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。

が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。

「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。

 だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。

 なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。

『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市
民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。

 そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 
支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。

最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。

おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。

最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。

頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。

私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。

「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。

プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!

私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。

『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。

人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。

で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イ
ヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜松の言葉

 前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。

 浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。

 ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ〜?」という言葉がある。
「ノ〜?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。

が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。

「まだ、(あの仕事を)やってるのノ〜?」と。

 聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。

 ほかにもある。

 浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。

たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ〜?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。

 これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。

 全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。

●恋愛主義

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。

 先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。

『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。 
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
 
 もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。

●お涙ちょうだい

 ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。

 おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。

 昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。

 父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。

 息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。

●幻想

 こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。

 その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたか
ら」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。

 息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。

 先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさ
え、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。

 もちろんその逆もある。

●山城新吾

 少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。

 そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「やさしさがないなとは思う」とは?

++++++++++++++++++

俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

++++++++++++++++++

『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人
ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花
園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまった
という。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいな
あ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発
起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分
骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、
容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えて
よい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このよ
うな内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。

(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強
い。)

むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそ
れまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているに
ちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではな
い。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ文化の侵襲

 ……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的
にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。

 (まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。

私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たち
がいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。

 が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。

 父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。

私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。

●死ぬ間際

 死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?

 数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。

 死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。

その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛
や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。

 そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。

●12月30日、金曜日

 これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。

 私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。

2011/12/30朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の
心理学)


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